周公旦は、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』『儀礼』を著したとされますが、周公旦の影響が全くないと見るのは難しいものの、後世の作であることは常識です。『周公解夢』についても周公旦による著作とするには少し無理があるようです。
『周礼』には古代の夢解きに関する官制が詳しく記されており、周公旦と夢がここに繋がっていると言えますが、これだけでは、『周公解夢』が周公旦の名を冠されるに至った理由としては少し弱いと言えます。
西伯昌 周文王 |
周公旦の殷打倒までの細かい略歴は伝わっていません。兄・武王を助けて、殷との戦いに注力した、程度のものです。しかし、周王朝成立後、まもなく武王は病に倒れ、二代目として立てられた武王の子で幼少の成王を摂政としてサポートしたことが伝わっています。
王朝成立まもなくに起きた大内乱を平定し、国の安定に努めたとされます。成王の成長後は政権を成王に返しています。そのため、摂政ではなく、実際には一度王位を継いでいるのではないかとも考えられています。副都として、今後中国の各王朝にも度々都として位置づけられる、今の洛陽を築いたことでも知られています。成王とその後の康王の時代による、周王朝の最盛期「成康の治」の路線を引きました。
王朝創業期の混乱を見事に乗り越え、王朝の礎を築いたのは間違いありません。称号である「周公」がどこから来ているのか定説はありません(周発祥の岐山に封じられたため、とも言われています)が、国号と同じ称号を賜っている(周発祥の地を封じられる)ことはいかにその功が大きいかを示すものと言えそうです。
また、魯の国の実質的な開祖としても知られています。自身は魯には赴任せず中央にとどまって政権中枢を掌握し、嫡子の伯禽を派遣して統治させたともされ、そのため魯公(魯の君主)の初代は伯禽ともされますが、魯が周公旦とも関係が深いことは間違いありません。
孔子 |
孔子は、周公旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なくなったので(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたと言います。
このことも、周公旦と「夢」を密接に絡みつけるきっかけとなったようで、明らかに後世の作と思われる夢解きの著作が周公旦に仮託された要因の一つとなっているようです。
『周公解夢』は周公旦の著作とは考えづらいものです。しかし、ではなぜこの夢判断・夢占いの著作のタイトルに周公旦の名が冠せられたのか、それは『周公解夢』に触れる際の重要な問題提起となります。
この問題提起に簡潔に答えるすべは今のところありませんが、それを求め続けていくことは、『周公解夢』に悪い意味で飲み込まれない、のめり込まないためにも必要な姿勢です。実際の周公旦がどのような人だったのか、後世からどのように評価され、位置づけられたか、こうしたことを考えていくことがその第一歩だと思います。
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