丁固 |
正直に言うと、現在までに、日本でも、中国でもそれほど有名というわけではありません(少なくとも庄周虚化蝶や吕望兆飞熊ほどは有名ではない)が、『周公解夢』序文に掲載されている、「中国の夢」代表5作のうちの一つなのだから、それなりの後世への影響があったと考えられます。
丁固は、若くして父親を失い、母親と二人での貧しくつつましい生活であったが、母親には孝養を尽くし、一族の中の年下の身寄りのないものたちと生計を立て、辛苦を共にしたと言われています。子供の頃、当時の大学者・闞沢(かんたく)は「この児は必ず位人臣を極めるであろう」と予言したとも言います。
「腹の上に松の木が生える夢を見た」のは紀元250年ごろと逆算されます。その頃、呉の国では二宮の変と呼ばれる政治闘争の真っ最中で、大荒れに荒れていました。丁固の名が史書に現れてくるのもこの頃で、この政争の一方の主要メンバーとして名を連ねていました。ただし、その時の位は尚書であって、太子に守り仕える立場にあったものの、決して高位ではありませんでした。
それから順調に出生し、268年に司徒に昇進しました。この時代の司徒は行政部門の最高権力者であり、軍事部門や、監察・政策立案部門の長と並んで、人臣として最高位と言えます。この時、18年前の「腹の上に松の木が生える夢を見た」こと、その実現が話題になったということになります。
司徒昇進から5年後、273年に76歳で死去しますが、丁固は、呉の末期の有能な政治家として、後世からも高く評価される人物です。
良臣の貧しい出自からの立身出世と絡めた夢のお話であり、当時の人にも広く受け入れられたものだったのでしょうが、三国志の英雄・孫権が打ち立てた呉もその末期に差し掛かっており、輝きが失われていく中でのエピソードのため、現代においては地味ととらえられ、人気が今ひとつなのかもしれません。
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