2012年7月7日土曜日

吕望兆飞熊~呂望、熊の飛すを兆し「太公望は夢のお告げ」

「呂望兆飛熊」は、「飛熊入夢」とも言い、周の初代国王である武王の父・西伯昌(文王)が見た夢です。あの有名な、文王と太公望呂尚の邂逅譚となっています。日本ではあまり一般的ではありませんが、「飛熊」という言葉は中国では王が優秀な臣下を見つけるという故事で、有名な単語になっています。

ある時、西伯昌は虎から2本の翼が生え、その翼を生やした虎が飛び回り、自分の近くまで来るという夢を見ました。夢見に占わせると、それは「飛熊」というもので、いずれ賢人を幕僚に招くことができる吉兆とされました。

このことがあって、渭水での釣りの場面に至ります。一説では、呂尚の号が飛熊であったことから、西伯昌はさらに喜んでこれを迎え入れたと言います。史実において、呂尚の号が飛熊というのは確認できないようで、これはあくまでも『封神演義』上での出来事ともされていますが、「飛熊」の夢の話が中国において広く認知されていたことは間違いありません。

太公望呂尚
太公望呂尚は伝説的な人で、つかみどころがありませんが、周公旦と同じく、周王朝建国の大功臣であることは間違いありません。周公旦が殷王朝打倒までにあまり目立っていないのに対して、呂尚は文王・武王二代に渡っての軍師として活躍したことが伝えられています。

様々な物語に描かれている周公旦と呂尚は、あまりお互い相容れない性格だったとされていますが、それを端的に示しているエピソードを一つ紹介します。

周王朝成立後、周公旦とその子孫が魯に封じられたのに対して、呂尚は斉の国に封じられました。ある時、周公旦と呂尚が人材について論じた際、

周公旦「血縁主義で身内を優先すべきだ」

呂尚「そんな国は外との友好が薄く諸国から領土を削り取られるだろう。能力主義を取るべきだ」

周公旦「あなたのようなやり方では家臣に乗っ取られるだろう」

というやり取りがあったといいます(『呂氏春秋』「仲冬紀・長見」)。

後世、周公旦の魯は周辺諸国との軋轢で摩滅し衰退していきます。孔子の時代(周公旦の時代より約500年後)にはもはや中小国の一つに成り下がり、その後も歴史の表舞台に立つことはありませんでした。一方、呂尚の斉は、やはりそれから700年ほど経った後、大臣の田氏による簒奪を受け、呂尚の子孫は滅亡してしまいます。

上記のような両者の会話が、本当にあったことかどうかはわかりませんが、二人のそれぞれの出自や性格、その後の結果を見事に纏め上げたものとは言えると思います。

大雑把に言ってしまえば、周公旦は孔子が崇拝して以降、当然のことながら儒学・儒教の聖人になりますが、伝説的要素満載の太公望呂尚は道教のスター(神)として広く親しまれることになるのも偶然ではないかもしれません。

周公旦の名前を冠された『周公解夢』の性質が当然、必ずしも儒学・儒教的であるわけではなく、むしろ一般に流布された風習や習俗が多く取り入れられた(その意味では道教的)ものであることは間違いありませんが、その性質を探る上で、名前を冠された周公旦の人となりを、太公望呂尚との比較で見ると、より深く理解できそうです。

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