2012年7月25日水曜日

曹操が司馬氏の簒奪を予兆した夢―天下人が見る夢とは?

李淵(唐の高祖)の悪夢についての解釈で、李淵にアドバイスをしたのは側近ではなく智満禅師という李淵が親しくしていた僧だったという説もあります。『太平広記』では、李淵が倒した隋の建国者・楊堅(隋の文帝)の夢の話も載せています。

それによれば、楊堅はある日、移動中の船の中で、左腕を失うという夢を見ました。目を覚ました後、非常に不吉、不快と思いつつ、船から岸に上ると、草庵が見えました。その草庵を訪れると、独りの僧がいたので夢の話をしてみると、その僧は「それはおめでたい。独拳ということは、独権です。権力を独占できる、という意味になります」と解釈したので、楊堅は大変喜んだ、という話です。
李淵の話とほとんどそっくりです。悪夢だったが、夢を解釈してみると、皇帝になる、という点。二つとも僧が機転を利かせた解釈を行っている点などが共通しています。

さて、三国志の英雄・曹操の夢。これはかなり有名な話ですね。曹操の晩年、三頭の馬が一つの槽の飼葉を食べている夢をみました。明晰な曹操はこの夢を、「三頭の馬」=司馬氏の三人、「槽」=「曹」と解いて、いずれ司馬氏が主家である曹家を乗っ取る兆しだろうと判断します。曹操は不安を覚え、息子の曹丕(魏の初代皇帝)に注意を促しましたが、子孫は曹操の見た夢の通りとなった、というお話です。

司馬氏の三人は、「懿・師・昭」とか、「師・昭・炎」であると言われています。

断るまでもなく、今までも数々の夢に関するエピソードを紹介してきましたが、それが実際にあったこと、起きたこと、であるかどうかには特別な注意を払ってきませんでした。それは、そうした話が語り継がれてきた背景にあるものこそ重要だと考えたためです。

しかし、この曹操の話、他の夢に関するエピソードと比べても、あまりにも出来すぎていて、リアリティの欠けらもなく、うそっぽいと思うのは私だけではないでしょう。。

曹操という英雄が建てた魏があまりにもあっけなく司馬氏の手に渡ってしまったという史実に対して、曹操を弁護する立場から、実は晩年簒奪されることは予知していたが、どうにもできなかった、という形にしたものと考えられます。

もしそうであれば、こうした場合にも、夢が活用される、というケースと言えそうです。

2012年7月24日火曜日

大唐帝国建国の真の功労者、初代皇帝が見た夢が関係した?

長い歴史の中では、天下人がその天下を手中に収める、あるいは失うということに関する夢もあります。代表的なのが、唐の高祖と三国志の曹操のものです。

唐の高祖は李淵です。魏晋南北朝時代の混乱を治め、全国統一を果たした隋(581年-618年)の高官でした。反乱を起こして隋を打倒、自身の王朝として、唐(618年-907年、一時中断あり)を打ち立てます。

そんな李淵が、打倒隋に立ち上がるかいなかの頃、史実に基づけばおそらく617年、太原留守(総督)の地位にある時だったと思われますが、不気味な夢を見ます。『太平広記』や宋の時代の『紀異録』に収録された説話です。

李淵が見た夢というのは、ベッドから落ちて、蛆が身体に這い上がり、全身を覆う、というものです。「身死墜床、為群蛆所食。」とも言いますので、それであれば、死んで、ベッドから落ちて、蛆の群れに食べられてしまう、というものです。

夢から覚めた李淵は、この夢が死を予兆したもので、反乱に立ち上がっても死ぬだけだから、必ずそれは失敗する、隋の臣としてこれからもがんばった方がよい、と判断を下します。

しかし、夢の話を聞いた側近が李淵に忠告します。「ベッドの下に落ちる(落在床下)ということは、“陛下”を意味します。蛆が身体に這い上がる、ということは、多くの人に頼られることを意味します。つまり、皇帝におなりになるべきです」。

これを聞いた李淵はやっと打倒隋に立ち上がることになります。

夢判断としては、悪夢が必ずしも凶事の予兆ではないという典型といえますが、側近の解釈も少し無理はありそうです。しかし、臆した李淵を立ち直らせて、その気にさせた、この側近は大唐帝国建国の功労者といえるかもしれません。

2012年7月23日月曜日

中国の夢判断、夢占いの発展は「夢解き」民営化が原因

後漢の文人・思想家である王充の旺盛な批判精神とその著作、思想体系によって、国の「夢解き」機能(制度、官職や為政者による重視)は薄れていくことになります。

しかし王充は、讖緯説・陰陽五行説以外にも、儒学・儒教に対しても厳しい批判を行ったことから、時が下って、隋唐から宋にいたり、朱子学がまとまり普及徹底していくにしたがって、儒学・儒教をイデオロギーとする支配体制が確立すると、異端視されて省みられることがなくなっていきます。

儒学・儒教体制を否定して生まれたという経緯のある現在の中国(中華人民共和国)においては、逆に一時期、孔子や儒学・儒教に対する批判の先駆者として評価されるようになります。これは、現状を批判し(本来はその中から社会を改善していこうとする)共産党的な考え方が、王充の旧習批判と接近したものだったという背景もありそうです。

それはともかく、王充の登場と影響力拡大によって、古来より続いた国営「夢解き」という伝統は衰え、国はむしろ夢判断・夢占いには関与しなくなり、そのため、逆に「夢解き」が民間に広まっていきます。国に独占されたものが民間に開放された、とも言えます。鉄道(JR)や通信(NTT)が、民営化したのに似ています。

JRもNTTも民営化することで、様々なしがらみがなくなり、独占による形骸が打破され、競争原理が働くことによって、業界が活性化したのと同じように、中国の夢判断、夢占いもここから急発展していくことになります。

夢判断、夢占いが国営ではなくなったことは、王侯貴族や官僚など上流階層の人々がそれらを行わなくなった、信じなくなったわけではありません。むしろ、一般庶民から、高貴な身分の方々まで、上から下まで、分け隔てなく、夢判断、夢占いというものを受け入れられるようになった、と考えた方がよいようです。これも、夢判断、夢占いが中国人の間に広く深く根付くようになった要因のようです。

2012年7月22日日曜日

夢解きは国家の一大事 打破したのは後漢・王充

中国では、古代より夢は特別なものでした。これは全世界に共通する考え方ではあります。中国の歴史においては良く使われる「先秦」時代(太古から、秦の始皇帝による中国統一、紀元前221年まで)において、国事と夢は切っても切り離せない関係があり、政策や人事、外交、軍事に至るまで、夢というものが大変尊重されました。夢を占うことが、最高統治者本人の重要時でもあり、少なくとも官職として重要な地位を占めることが通例でした。

しかし、裏を返せば、この時代までは夢は政治や政府とのつながり、一部の人間による独占支配下にあったといえます。夢を見るのは王侯貴族だけではありません。普通の人々も普通に夢を見ます。そのため、中国における夢判断、夢占いの歴史は古い、とはいえますが、国の首脳の独占状態にあったがために、大衆化、一般化することなく、ある意味では閉鎖的で、そのために停滞したとも言えます。

国や政府が夢判断、夢占いを独占事業として行う、ということに転機を迎えたのが、後漢(東漢とも、紀元25年-紀元220年)の文人で、思想家である王充(おうじゅう、紀元27年-紀元97年ごろ)の登場です。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』という書の著者です。

さらっと書くとなんてことないようにみえますが、王充は上述の生没年の通り、イエス・キリストと同時代人と言えます。それだけ古い時代のことです。世界中、今の科学的な目から見れば迷信に満ちていた、それが当たり前の社会的ルールであった時代において、王充は非合理なものへの批判と合理性への追求を提唱したのです。

ちなみに、ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は動く」とつぶやいたという伝説のある地動説裁判は1633年、今からわずか400年ほど前のことです。王充は2000年も前の人になります。しかも、当時の権力者に忌避されるどころか、晩年に至るまで皇帝から官職に就くよう招聘されたとも言われます(著作への専念と病気により辞退)。

王充は王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などを批判しています。その中に夢判断、夢占いが含まれていました。王充の批判以後、徐々に国の機能としての「夢解き」が薄れていくことになります。

2012年7月21日土曜日

兰花妙梦~晋の文公・重耳に寵愛された鄭の穆公の誕生譚

周王室と同族の君主によって治められた、鄭という国が紀元前806年-紀元前375年まで、つまり西周時代から春秋戦国時代まで存在していました。現在の河南省のあたりとなります。河南省の省都は今でも「鄭州」です。

その第10代の君主に文公(ぶんこう、紀元前?年-紀元前628年)がおり、その愛妾に燕姞という女性がいました。ある日、燕姞は不思議な夢を見ました。夢の中に、一人の天使が現れ、彼女に美しく香り豊かな蘭の花を贈ったのです。天使は、「これはあなたの息子に与えるものです」と言ったところ、燕姞は夢から覚めました。

夢から覚めた後、燕姞は身体に蘭の花の香りが染み込んでいく感覚を覚えました。しばらくして、彼女は懐妊します。その後、男の子を無事に出産、夢の内容にちなんで、「蘭」と名づけられました。いろいろな数奇な運命を経て、「蘭」は父・文公の後をついで、次代の鄭の国の君主になります。

燕姞が蘭を生んだのは文公24年(紀元前649年)と言われています。それから12年後、つまり蘭が12歳の時、鄭の国に晋の公子・重耳(ちょうじ)が訪れます。重耳は、晋の国内事情によって各国を放浪しなければならなかったのですが、鄭の文公はこの亡命公子を冷遇してしまいます。

春秋・戦国時代という戦乱の世では、亡命公子は全く珍しくなく、いちいち厚遇しているわけにもいかなかったのでしょうし、重耳もほとんどの国でつらい思いをしてきたので、鄭ばかりが悪いわけではないのですが、重耳を冷遇したことが、文公、そして蘭(後の穆公)の運命を変えます。

晋に戻って君主の座に就いた重耳が、後に晋の文公と呼ばれ、この時代を代表する君主の一人で、晋を超大国に成長させていく名君(宮城谷昌光氏の小説「重耳」が詳しい)ですが、冷遇してしまった鄭の文公はこの晋の文公と対立することになり、文公43年(前630年)、晋軍に鄭(当時の国は都市国家)を包囲される事態になりました。

鄭の文公は、自身の公子をことごとく追放、その中に蘭もいました。蘭は、晋に亡命します。蘭は晋の文公に寵愛され、晋の文公が後ろ盾になって、蘭を鄭に戻し、晩年の鄭の文公も折れて、蘭を太子にしました。文公45年(前628年)、文公が薨去し、太子の蘭が鄭の君主になります。後に鄭の穆公(ぼくこう、紀元前649年-紀元前606年 在位:紀元前627年-紀元前606年)と呼ばれます。

鄭は周王朝において交通の要衝として初期は栄え、天下に号令することもありましたが、文公・穆公の時代になると、北の超大国・晋と、南の超大国・楚にはさまれ、両大国間に翻弄される(自ら後背を繰り返す)国になりました。

穆公も誕生秘話や、晋の文公の後ろ盾による鄭への復帰と立太子は華やかでしたが、それ以外、特に君主となって以降目立った事績はありません。穆公の孫に、春秋時代最高の宰相、最大の政治家である子産(しさん 紀元前?年-紀元前522年)が出ますが、このことが穆公の歴史における最後の輝きになりました。

子産についても、宮城谷昌光氏の小説「子産」に詳しく描かれています。

なぜその穆公の誕生秘話が今に語り継がれる中国の夢の代表的なエピソードになったのか、大変不思議です。当時の英雄・晋の文公に寵愛された縁起だったのかもしれません。晋の文公の事績は、伝承や伝説を除いて正史に描かれているだけでも微に入り細にわたります。とても紀元前に生きた人の記録とは思えないほど豊富です。それだけ当時においては大きな存在だったと考えられます。蘭に対する寵愛にもそれなりの理由が求められたのかもしれません。

現代中国でも、女性が蘭の花の夢を見ると、それは懐妊の兆候、特に男子誕生を予兆させるものと考えられています。そうしてみると、実際の鄭の穆公・蘭は、少なくとも君主になって以降は歴史の主役とはなりえませんでしたが、死後、その後長きに渡って、今でも確実に中国文化の中で生き続けていると言えそうです。

2012年7月20日金曜日

重温旧梦~一度過ぎ去った光景を思い出す

日本語の漢字:重温旧夢

意 味:古い夢を改めて思い浮かべる。一度過ぎ去った光景を思い出す。旧梦重温とも。

出 典:清·丘逢甲《岭云每日楼诗钞·重过感旧园二首》诗:“水木清华负郭园,三年客梦此重温。眼中故物诗留壁,身后浮文酒满樽。”

得失皆梦~故事成語の宝庫『列子』記載、得るも失うも全て夢

「得失皆梦」は、『列子』に収録されているエピソードです。列子(れっし)は、春秋戦国時代の人、河南鄭州人である列御寇のこととされていますが、正式な記録もなく、実在が疑われている人でもあります。『列子』も道家思想を汲みながら、一部に仏教思想も見られることから、一部は後世に追加されたものとも考えられる書籍です。

しかし、『列子』は故事成語の宝庫で、杞憂、朝三暮四、愚公山を移す、男尊女卑など、日本でも馴染み深い言葉の出典になっています。疑心暗鬼という言葉も、本文にはないものの、その注から生まれた言葉になります。

「得失皆梦」はそれらと比べると、有名ではありませんが、奥深い話となっています。

蒔き拾いの人が、偶然、傷を負った鹿を打ち殺しました。とりあえず、その死骸を路傍に芭蕉の葉で蓋をして隠します。用が済んで鹿を隠したところまで戻ってくると、隠し場所を探すことができなくなってしまいました。そのため、彼は自分が夢を見ていたのだと思ってしまいます。

家に帰る途中、この蒔き拾いの人はこの奇怪な“夢”を別のある人に話しました。ある人はその話を聞いた後、隠し場所に行ってみると、鹿を見つけ出すことができました。ある人は鹿を家に持って帰り、得意げに奥さんに話しました。「あの蒔き拾いの人、鹿を打ったのに、得られず、夢を見たようだ」。奥さんが言いました。「あんたも今、鹿を得たのだから、夢を見ているかもしれないよ」。

蒔き拾いの人は自分の“夢”を忘れず念じ続けたため、その夜、本当に夢を見ました。その夢の中で、自分が鹿を隠した場所を見、また自分が話をしたある人が鹿を持ち帰ったことまで夢で見ました。次の日、蒔き拾いの人は鹿を持ち帰ったある人を探し出し、二人は喧嘩を始めます。

得るも失うも全て夢、ということになります。道家らしい説話と言えそうです。