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2012年7月11日水曜日

『周公解夢』の扉文にある、中国を代表する五つの夢のエピソード

今まで、庄周虚化蝶、吕望兆飞熊、丁固生松贵、江淹得笔聪、黄粱巫峡事という『周公解夢』の扉文に挙げられた、中国を代表するともいえる五つ(実際はもう少し複数)の夢に関するエピソードを紹介してきました。扉文にあるように、「紛紛たる夢はこれだけにきわまるものでは」ありませんが、これらのエピソードは少なくともいくつかのパターンを提示しているとは言えるでしょう。

・庄周虚化蝶

胡蝶の夢。「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地。これが事例の中でも最初に挙げられたのは、最も有名な夢に関するエピソードだからだけではなく、「夢」というもの、さらにその「夢解き」の極意を示すものだからだとも考えられます。

しかしこの境地、荘周の思想が色濃く反映しており、行き着く所は「無為」となり、実は現世主義の中国人とは対極の考え方を示すものとも言え、「邯鄲の枕」と同様、中国においては有名ではありますが、主流とはなりえないとも言えます。

これからも夢に関するエピソードを紹介してきますが、存外、道家思想に基づく内容のものというのは多いものです。庄周虚化蝶はもちろん、「邯鄲の枕」もそうと言えます。“存外”ではなく、必然かもしれません。中国人にとっての夢、というのはそのようなとらえ方だ、少なくともそのようなとらえ方もされる、と考えられます。

現実と夢をどのように整合性を取ってゆくのか、そして夢を解釈していくのか、という問題提起として、『周公解夢』の扉文に示された事例冒頭を飾るのに適した材料とは言えるでしょう。

・吕望兆飞熊

夢を現実の吉兆(逆の意味での凶兆)としてとらえるパターンの代表例。

・丁固生松贵

夢を将来的な成功、立身出世(逆の意味での失敗、衰退)としてとらえる、因果応報的なパターンの代表例。

・江淹得笔聪

人生の成功と没落を夢と因果付けるパターンの代表例。

・黄粱巫峡事

「邯鄲の夢」と「男女の情交及びはかなさ」という意味で、夢そのもののはかなさを暗示するもの。
おおよそ、以上のように総括できると思います。

2012年7月10日火曜日

黄粱巫峡事~黄粱、巫峽の事「邯鄲の夢と朝雲暮雨」

「黄粱巫峡事」は正確には「黄粱」「巫峡」という二つの事、二つの夢の例という意味になります。まず、「黄粱」について。これは「黄粱一夢」、つまり黄粱の一炊のほか、邯鄲の枕、邯鄲の夢など多数の呼び方がある、中国と夢のお話ということで言えば、日本で最も有名な故事でしょう。現在の夢オチの代表的な古典作品と言えます。

唐の沈既済の小説『枕中記』に収録されているもので、中国戦国時代、趙(紀元前403年 - 紀元前228年)の国の話。フリー百科事典・ウィキペディア「邯鄲の枕」から趣旨を紹介します。
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趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。

ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた栗粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
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中国でももちろん有名な話に違いありませんが、歴史的にみると、あまり顧みられることのない故事の部類に入るかもしれません。とことん現世主義の、中国的ではない、中国では好かれにくい形式ともいえます。どちらかと言えば、栄枯盛衰、諸行無常という、今も昔も、日本人好みの話です。フリー百科事典・ウィキペディアでも、

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同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。
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と分析していますが、その通りでしょう。逆に今の中国では、Q&Aサイトに「黄粱の夢ってどんなお話?」というQが投稿されるほど、あまり馴染みのないものになっています。

といっても、「邯鄲夢の枕」「邯鄲の夢」「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉は日本でも「現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっている」(フリー百科事典・ウィキペディア)ということなので、いずれ忘れ去られるかもしれません。

ではもう一つの「巫峡」について。こちらははっきり言ってしまえば、男女の営み、男女の契り・情交のこと、またはその夢、そのはかなさを指します。「巫峡」の原義はいわゆる、三峡のうちの一つです。フリー百科事典・ウィキペディアによれば、

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(一番上流にある瞿塘峡に続く巫峡は)重慶市と湖北省の境にある40km以上の長さの渓谷で、巫山山脈を北西から南東へ貫いて巫山山系の間を東西へ流れる。巫山の十二峰をはじめとする秀麗な景観が多くの文人に霊感を与えてきた。十二峰のなかでも神女峰は最高の見どころで雲の中に突端を突き出している。山が迫るために川面を太陽が照らすことは少ない。
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となります。この説明の中でも、男女の営み、特に「女神」を暗示させる言葉がいくつも出てくるのは偶然ではないでしょう。「巫峡夢」と言えば、中国の戦国時代の楚の第38代の王・頃襄王(けいじょうおう、紀元前?年-紀元前263年、在位:紀元前298年-紀元前263年。楚襄王とも)の夢の中での、「女神」とのラブロマンス、そのやり取りが元となった説話です。戦国時代の詩人・宋玉の「高唐賦」が出典です。「楚梦云雨」(楚夢雲雨、男女の緊密な様子のたとえ)という成語にもなっています。

この中から朝雲暮雨という、現在の中国でも日本でも使用されている成語が生まれてきます。朝雲暮雨こそが、男女の契り・情交のことなのです。朝雲暮雨の夢とも言います。くわしくはこちらの解説が秀逸です。特に「王因幸之」(王因りて之を幸す)は、この四文字に込められた深遠な意味を頭にはっきりと描ける、見事な表現といわざるを得ません。

そもそも、朝雲暮雨とは、朝は曇り、夕方は雨という意味で、それだけで天候の移り変わり、そこから転じて、「はかなさ」という意味合いが強くあります。国王が、夢で絶世の美女と戯れ楽しんでいたら夢から覚めた、という、まさに夢オチ。

「黄粱巫峡事」はあわせて「夢オチの事」と意訳しても良いような事例といえるでしょう。

2012年7月9日月曜日

江淹得笔聪~江淹聰し筆を得て「後には江郎才尽」

「江淹得筆聡」は、中国南北朝時代の文学者・政治家である江淹(こうえん、444年 - 505年)が見た夢です。一般的に「江淹(江郎)才尽く」というエピソードで有名であり、このエピソードも夢の話。江淹得笔聪は「江淹は聡し筆を得る」夢という意味であり、夢で筆を失ったことによって、「才尽く」となった状態とは正反対ですが、江淹が夢で「筆を得て」出世し、文学者としても大成し、また夢で「筆を失って」出世が止まり、文学者としての素質も失った、という、いわば二本立ての夢に関する説話になっていると考えた方がよいようです。

江淹
江淹は、門閥重視の貴族社会であった六朝時代(222年-589年。三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳)において、寒門(身分が低い一族)の出身でありながら、その文才と時局を的確に見定める能力によって、高位に上りつめ生涯を終えたとされています。

江淹に関する詳細は立身出世や、文学上の位置などは、フリー百科事典・ウィキペディア「江淹」などに譲りますが、江淹には先程説明したように、2種類、3つの夢に関するエピソードがあります。2種類というのは、「筆を得て」と「筆を失って」になりますが、三つの夢というのは、そのうち「筆を失って」には異説があるというものです。

まず、1種類1つの夢しかない「筆を得て」からについて。これは、「夢筆生花」とも呼ばれる故事で、まさに「江淹得笔聪」ですが、ある日の夢の中で、江淹は神人に会い、5色の神の筆を与えられます。これ以降、江淹の文才が花開き、大文学者の道を歩み、名声を勝ち得ていくことになる、というものです。『蒙求』という書物にあるお話です。

また、「夢筆生花」ということで言えば、五代十国時代の王仁裕『开元天宝遗事·梦笔头生花』に、唐の大詩人・李白の故事として出典が見られます。また、「夢筆生花」は独特の景観で有名な黄山(安徽省/現在は世界遺産)に、筆のような、峰から花が生えたような景観についても、「黄山夢筆生花」などと言われます。この「黄山夢筆生花」は、李白が黄山に遊んだ際の伝説にも登場します。

もう一つが、「筆を失って」の方で、最も有名な「江淹才尽く」「江郎才尽」です。梁の鍾嶸の『詩品』によると「江淹が宣城太守を辞任し、首都建康への帰路の途中(起源500年ごろ)、夢に郭璞を名乗る美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」というものです。劉璠の『梁典』にも似た話が収録されています。

その異説として、唐の李延寿の『南史』では『詩品』と同じような話のほかに、「夢に西晋の詩人張協(張景陽)が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒り、錦を丘遅に与えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」というもう一つのお話があります。

この故事を受け、日本では、文人の文才が枯渇することを意味するようになりましたが、中国でもそうした意味があると同時に、中国では現在においても、江淹の「才尽」を学術的に事実関係をつまびらかにしようという研究が盛んに行われています。江淹が晩年に差し掛かって文学活動を減少させていったというのは事実のようですが、それに当時の政治情勢や、江淹の生活環境の変化などで説明しよう、という試みです。

そういう説はさておき、このような夢のエピソードが本当にあったことかどうかはともかく、広く長く伝えられているのは、このような話がなければ、当時の感覚(血統主義、貴族社会)や王朝がころころと変わっていく政治情勢として、「寒門」出身者である江淹が、文学者として、またそれとも付随した政治活動としての出世として、かくも鮮やかな成功はなかったのではないか、と考えられたことによるのかもしれません。

少なくとも、夢は、当時の政治・社会状況とも密接にかかわりをもって、そのエピソードが成立している、ということは言えると思います。

2012年7月8日日曜日

丁固生松贵~丁固、貴き松が生ず「18年後には大臣に」

丁固
「丁固生松貴」は、三国時代・呉の政治家である丁固(ていこ)が、腹の上に松の木が生える夢を見、松の字が「十八公」と分解できるから、18年後に公(大臣)になるだろうと予感、それが実現したという話。

正直に言うと、現在までに、日本でも、中国でもそれほど有名というわけではありません(少なくとも庄周虚化蝶や吕望兆飞熊ほどは有名ではない)が、『周公解夢』序文に掲載されている、「中国の夢」代表5作のうちの一つなのだから、それなりの後世への影響があったと考えられます。

丁固は、若くして父親を失い、母親と二人での貧しくつつましい生活であったが、母親には孝養を尽くし、一族の中の年下の身寄りのないものたちと生計を立て、辛苦を共にしたと言われています。子供の頃、当時の大学者・闞沢(かんたく)は「この児は必ず位人臣を極めるであろう」と予言したとも言います。

「腹の上に松の木が生える夢を見た」のは紀元250年ごろと逆算されます。その頃、呉の国では二宮の変と呼ばれる政治闘争の真っ最中で、大荒れに荒れていました。丁固の名が史書に現れてくるのもこの頃で、この政争の一方の主要メンバーとして名を連ねていました。ただし、その時の位は尚書であって、太子に守り仕える立場にあったものの、決して高位ではありませんでした。

それから順調に出生し、268年に司徒に昇進しました。この時代の司徒は行政部門の最高権力者であり、軍事部門や、監察・政策立案部門の長と並んで、人臣として最高位と言えます。この時、18年前の「腹の上に松の木が生える夢を見た」こと、その実現が話題になったということになります。

司徒昇進から5年後、273年に76歳で死去しますが、丁固は、呉の末期の有能な政治家として、後世からも高く評価される人物です。

良臣の貧しい出自からの立身出世と絡めた夢のお話であり、当時の人にも広く受け入れられたものだったのでしょうが、三国志の英雄・孫権が打ち立てた呉もその末期に差し掛かっており、輝きが失われていく中でのエピソードのため、現代においては地味ととらえられ、人気が今ひとつなのかもしれません。

2012年7月7日土曜日

吕望兆飞熊~呂望、熊の飛すを兆し「太公望は夢のお告げ」

「呂望兆飛熊」は、「飛熊入夢」とも言い、周の初代国王である武王の父・西伯昌(文王)が見た夢です。あの有名な、文王と太公望呂尚の邂逅譚となっています。日本ではあまり一般的ではありませんが、「飛熊」という言葉は中国では王が優秀な臣下を見つけるという故事で、有名な単語になっています。

ある時、西伯昌は虎から2本の翼が生え、その翼を生やした虎が飛び回り、自分の近くまで来るという夢を見ました。夢見に占わせると、それは「飛熊」というもので、いずれ賢人を幕僚に招くことができる吉兆とされました。

このことがあって、渭水での釣りの場面に至ります。一説では、呂尚の号が飛熊であったことから、西伯昌はさらに喜んでこれを迎え入れたと言います。史実において、呂尚の号が飛熊というのは確認できないようで、これはあくまでも『封神演義』上での出来事ともされていますが、「飛熊」の夢の話が中国において広く認知されていたことは間違いありません。

太公望呂尚
太公望呂尚は伝説的な人で、つかみどころがありませんが、周公旦と同じく、周王朝建国の大功臣であることは間違いありません。周公旦が殷王朝打倒までにあまり目立っていないのに対して、呂尚は文王・武王二代に渡っての軍師として活躍したことが伝えられています。

様々な物語に描かれている周公旦と呂尚は、あまりお互い相容れない性格だったとされていますが、それを端的に示しているエピソードを一つ紹介します。

周王朝成立後、周公旦とその子孫が魯に封じられたのに対して、呂尚は斉の国に封じられました。ある時、周公旦と呂尚が人材について論じた際、

周公旦「血縁主義で身内を優先すべきだ」

呂尚「そんな国は外との友好が薄く諸国から領土を削り取られるだろう。能力主義を取るべきだ」

周公旦「あなたのようなやり方では家臣に乗っ取られるだろう」

というやり取りがあったといいます(『呂氏春秋』「仲冬紀・長見」)。

後世、周公旦の魯は周辺諸国との軋轢で摩滅し衰退していきます。孔子の時代(周公旦の時代より約500年後)にはもはや中小国の一つに成り下がり、その後も歴史の表舞台に立つことはありませんでした。一方、呂尚の斉は、やはりそれから700年ほど経った後、大臣の田氏による簒奪を受け、呂尚の子孫は滅亡してしまいます。

上記のような両者の会話が、本当にあったことかどうかはわかりませんが、二人のそれぞれの出自や性格、その後の結果を見事に纏め上げたものとは言えると思います。

大雑把に言ってしまえば、周公旦は孔子が崇拝して以降、当然のことながら儒学・儒教の聖人になりますが、伝説的要素満載の太公望呂尚は道教のスター(神)として広く親しまれることになるのも偶然ではないかもしれません。

周公旦の名前を冠された『周公解夢』の性質が当然、必ずしも儒学・儒教的であるわけではなく、むしろ一般に流布された風習や習俗が多く取り入れられた(その意味では道教的)ものであることは間違いありませんが、その性質を探る上で、名前を冠された周公旦の人となりを、太公望呂尚との比較で見ると、より深く理解できそうです。

2012年7月6日金曜日

庄周虚化蝶~荘周、幼蝶と虚むれ「胡蝶の夢」

中国の戦国時代の宋国の人で、道家のその一人である荘子(紀元前369年 - 紀元前286年<推定>、荘周(姓=荘、名=周))の説話。夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という内容です。

この説話の内容をより深く理解するためには荘子の考え方全体の中で位置づけなければなりませんが、簡単に言ってしまえば、「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地を指し示しています。

日本でも「胡蝶の夢」という説話として有名な話であり、全文と訳を掲載しておきます(フリー百科事典・ウィキペディア「胡蝶の夢」)。

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原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
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荘周(荘子)
荘周は、無為自然、一切斉同を説きます。徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に入り浸るとも言われていますが、この「胡蝶の夢」でも分かるように、必ずしも世俗を離れようとしているのではなく、煩雑な人為に満ちた世俗をいかに生きるか、考えるかの一つの方法論として提示していると考えた方が、荘子本来の考えを示しているように思います。

それは逆説的でもありますが、人為を極端に排除しつつも、荘周の著作や生き方から考えると、人為の極みである儒学・儒教、さらにその開祖である孔子を必ずしも批判していないことからでも明らかです。荘周はむしろ儒家出身者ではないかという説もあるぐらいですが、十分ありえるべきことで、いわばアンチテーゼとして無為を説くという姿勢があったと考えたほうが良いかもしれません。

それは、荘周の思想が、先行したとされる老子の考え方と集合して、老荘思想(道家)としてまとまり、魏晋南北朝時代(184年-589年)に一世を風靡する清談に受け継がれていくという歴史の流れにも沿うものと考えられます。逆にこの魏晋南北朝時代の貴族社会から、隋唐時代(581年-907年)に確立した、儒学・儒教一辺倒となる、いかにも中国らしい科挙制度による律令・官僚社会への変遷とも呼応しているとも言えます。