今まで、庄周虚化蝶、吕望兆飞熊、丁固生松贵、江淹得笔聪、黄粱巫峡事という『周公解夢』の扉文に挙げられた、中国を代表するともいえる五つ(実際はもう少し複数)の夢に関するエピソードを紹介してきました。扉文にあるように、「紛紛たる夢はこれだけにきわまるものでは」ありませんが、これらのエピソードは少なくともいくつかのパターンを提示しているとは言えるでしょう。
・庄周虚化蝶
胡蝶の夢。「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地。これが事例の中でも最初に挙げられたのは、最も有名な夢に関するエピソードだからだけではなく、「夢」というもの、さらにその「夢解き」の極意を示すものだからだとも考えられます。
しかしこの境地、荘周の思想が色濃く反映しており、行き着く所は「無為」となり、実は現世主義の中国人とは対極の考え方を示すものとも言え、「邯鄲の枕」と同様、中国においては有名ではありますが、主流とはなりえないとも言えます。
これからも夢に関するエピソードを紹介してきますが、存外、道家思想に基づく内容のものというのは多いものです。庄周虚化蝶はもちろん、「邯鄲の枕」もそうと言えます。“存外”ではなく、必然かもしれません。中国人にとっての夢、というのはそのようなとらえ方だ、少なくともそのようなとらえ方もされる、と考えられます。
現実と夢をどのように整合性を取ってゆくのか、そして夢を解釈していくのか、という問題提起として、『周公解夢』の扉文に示された事例冒頭を飾るのに適した材料とは言えるでしょう。
・吕望兆飞熊
夢を現実の吉兆(逆の意味での凶兆)としてとらえるパターンの代表例。
・丁固生松贵
夢を将来的な成功、立身出世(逆の意味での失敗、衰退)としてとらえる、因果応報的なパターンの代表例。
・江淹得笔聪
人生の成功と没落を夢と因果付けるパターンの代表例。
・黄粱巫峡事
「邯鄲の夢」と「男女の情交及びはかなさ」という意味で、夢そのもののはかなさを暗示するもの。
おおよそ、以上のように総括できると思います。
2012年7月11日水曜日
2012年7月8日日曜日
丁固生松贵~丁固、貴き松が生ず「18年後には大臣に」
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| 丁固 |
正直に言うと、現在までに、日本でも、中国でもそれほど有名というわけではありません(少なくとも庄周虚化蝶や吕望兆飞熊ほどは有名ではない)が、『周公解夢』序文に掲載されている、「中国の夢」代表5作のうちの一つなのだから、それなりの後世への影響があったと考えられます。
丁固は、若くして父親を失い、母親と二人での貧しくつつましい生活であったが、母親には孝養を尽くし、一族の中の年下の身寄りのないものたちと生計を立て、辛苦を共にしたと言われています。子供の頃、当時の大学者・闞沢(かんたく)は「この児は必ず位人臣を極めるであろう」と予言したとも言います。
「腹の上に松の木が生える夢を見た」のは紀元250年ごろと逆算されます。その頃、呉の国では二宮の変と呼ばれる政治闘争の真っ最中で、大荒れに荒れていました。丁固の名が史書に現れてくるのもこの頃で、この政争の一方の主要メンバーとして名を連ねていました。ただし、その時の位は尚書であって、太子に守り仕える立場にあったものの、決して高位ではありませんでした。
それから順調に出生し、268年に司徒に昇進しました。この時代の司徒は行政部門の最高権力者であり、軍事部門や、監察・政策立案部門の長と並んで、人臣として最高位と言えます。この時、18年前の「腹の上に松の木が生える夢を見た」こと、その実現が話題になったということになります。
司徒昇進から5年後、273年に76歳で死去しますが、丁固は、呉の末期の有能な政治家として、後世からも高く評価される人物です。
良臣の貧しい出自からの立身出世と絡めた夢のお話であり、当時の人にも広く受け入れられたものだったのでしょうが、三国志の英雄・孫権が打ち立てた呉もその末期に差し掛かっており、輝きが失われていく中でのエピソードのため、現代においては地味ととらえられ、人気が今ひとつなのかもしれません。
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