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2012年7月21日土曜日

兰花妙梦~晋の文公・重耳に寵愛された鄭の穆公の誕生譚

周王室と同族の君主によって治められた、鄭という国が紀元前806年-紀元前375年まで、つまり西周時代から春秋戦国時代まで存在していました。現在の河南省のあたりとなります。河南省の省都は今でも「鄭州」です。

その第10代の君主に文公(ぶんこう、紀元前?年-紀元前628年)がおり、その愛妾に燕姞という女性がいました。ある日、燕姞は不思議な夢を見ました。夢の中に、一人の天使が現れ、彼女に美しく香り豊かな蘭の花を贈ったのです。天使は、「これはあなたの息子に与えるものです」と言ったところ、燕姞は夢から覚めました。

夢から覚めた後、燕姞は身体に蘭の花の香りが染み込んでいく感覚を覚えました。しばらくして、彼女は懐妊します。その後、男の子を無事に出産、夢の内容にちなんで、「蘭」と名づけられました。いろいろな数奇な運命を経て、「蘭」は父・文公の後をついで、次代の鄭の国の君主になります。

燕姞が蘭を生んだのは文公24年(紀元前649年)と言われています。それから12年後、つまり蘭が12歳の時、鄭の国に晋の公子・重耳(ちょうじ)が訪れます。重耳は、晋の国内事情によって各国を放浪しなければならなかったのですが、鄭の文公はこの亡命公子を冷遇してしまいます。

春秋・戦国時代という戦乱の世では、亡命公子は全く珍しくなく、いちいち厚遇しているわけにもいかなかったのでしょうし、重耳もほとんどの国でつらい思いをしてきたので、鄭ばかりが悪いわけではないのですが、重耳を冷遇したことが、文公、そして蘭(後の穆公)の運命を変えます。

晋に戻って君主の座に就いた重耳が、後に晋の文公と呼ばれ、この時代を代表する君主の一人で、晋を超大国に成長させていく名君(宮城谷昌光氏の小説「重耳」が詳しい)ですが、冷遇してしまった鄭の文公はこの晋の文公と対立することになり、文公43年(前630年)、晋軍に鄭(当時の国は都市国家)を包囲される事態になりました。

鄭の文公は、自身の公子をことごとく追放、その中に蘭もいました。蘭は、晋に亡命します。蘭は晋の文公に寵愛され、晋の文公が後ろ盾になって、蘭を鄭に戻し、晩年の鄭の文公も折れて、蘭を太子にしました。文公45年(前628年)、文公が薨去し、太子の蘭が鄭の君主になります。後に鄭の穆公(ぼくこう、紀元前649年-紀元前606年 在位:紀元前627年-紀元前606年)と呼ばれます。

鄭は周王朝において交通の要衝として初期は栄え、天下に号令することもありましたが、文公・穆公の時代になると、北の超大国・晋と、南の超大国・楚にはさまれ、両大国間に翻弄される(自ら後背を繰り返す)国になりました。

穆公も誕生秘話や、晋の文公の後ろ盾による鄭への復帰と立太子は華やかでしたが、それ以外、特に君主となって以降目立った事績はありません。穆公の孫に、春秋時代最高の宰相、最大の政治家である子産(しさん 紀元前?年-紀元前522年)が出ますが、このことが穆公の歴史における最後の輝きになりました。

子産についても、宮城谷昌光氏の小説「子産」に詳しく描かれています。

なぜその穆公の誕生秘話が今に語り継がれる中国の夢の代表的なエピソードになったのか、大変不思議です。当時の英雄・晋の文公に寵愛された縁起だったのかもしれません。晋の文公の事績は、伝承や伝説を除いて正史に描かれているだけでも微に入り細にわたります。とても紀元前に生きた人の記録とは思えないほど豊富です。それだけ当時においては大きな存在だったと考えられます。蘭に対する寵愛にもそれなりの理由が求められたのかもしれません。

現代中国でも、女性が蘭の花の夢を見ると、それは懐妊の兆候、特に男子誕生を予兆させるものと考えられています。そうしてみると、実際の鄭の穆公・蘭は、少なくとも君主になって以降は歴史の主役とはなりえませんでしたが、死後、その後長きに渡って、今でも確実に中国文化の中で生き続けていると言えそうです。

2012年7月20日金曜日

得失皆梦~故事成語の宝庫『列子』記載、得るも失うも全て夢

「得失皆梦」は、『列子』に収録されているエピソードです。列子(れっし)は、春秋戦国時代の人、河南鄭州人である列御寇のこととされていますが、正式な記録もなく、実在が疑われている人でもあります。『列子』も道家思想を汲みながら、一部に仏教思想も見られることから、一部は後世に追加されたものとも考えられる書籍です。

しかし、『列子』は故事成語の宝庫で、杞憂、朝三暮四、愚公山を移す、男尊女卑など、日本でも馴染み深い言葉の出典になっています。疑心暗鬼という言葉も、本文にはないものの、その注から生まれた言葉になります。

「得失皆梦」はそれらと比べると、有名ではありませんが、奥深い話となっています。

蒔き拾いの人が、偶然、傷を負った鹿を打ち殺しました。とりあえず、その死骸を路傍に芭蕉の葉で蓋をして隠します。用が済んで鹿を隠したところまで戻ってくると、隠し場所を探すことができなくなってしまいました。そのため、彼は自分が夢を見ていたのだと思ってしまいます。

家に帰る途中、この蒔き拾いの人はこの奇怪な“夢”を別のある人に話しました。ある人はその話を聞いた後、隠し場所に行ってみると、鹿を見つけ出すことができました。ある人は鹿を家に持って帰り、得意げに奥さんに話しました。「あの蒔き拾いの人、鹿を打ったのに、得られず、夢を見たようだ」。奥さんが言いました。「あんたも今、鹿を得たのだから、夢を見ているかもしれないよ」。

蒔き拾いの人は自分の“夢”を忘れず念じ続けたため、その夜、本当に夢を見ました。その夢の中で、自分が鹿を隠した場所を見、また自分が話をしたある人が鹿を持ち帰ったことまで夢で見ました。次の日、蒔き拾いの人は鹿を持ち帰ったある人を探し出し、二人は喧嘩を始めます。

得るも失うも全て夢、ということになります。道家らしい説話と言えそうです。

2012年7月18日水曜日

一场春梦~蘇東坡の栄光と没落、翻弄された政治人生

夢エピ。今回は、「一场春梦」。

「一場春夢」。人生は夢、幻のようなもの、という意味。幻滅、というニュアンスがあります。夢に関わるエピソードとしてはよくあるパターンではありますが、この故事が蘇東坡に由来するものなので、紹介します。

蘇軾(そしょく、1037年-1101年)は北宋の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれます。唐宋八大家の一人で、この時代を代表する文豪であり、中国の数千年という長い歴史の中でも、もしかすると10本の指に入る芸術家かもしれません。

この夢の故事自体、ひどい境遇に遭って、晩年に僻地に左遷され、しかも左遷先まで非常に貧しいなりで移動することになった蘇東坡。その姿を見た、蘇東坡の栄光と没落を知っている老婆が、「昔はあれだけの栄華を誇っていたのに、(今の凋落振りを見ると)まるで一つの春の夢のようだ」と言ったことにちなむものです。

蘇東坡は今で言う四川省の出身。20歳の時に科挙に合格して進士となり、規定どおりに地方官を歴任、宋の英宗(在位:1063年-1067年)の時代に中央入りを果たします。ちなみに、英宗も夢にまつわる出生譚があります。

次の神宗(1067年-1085年)の時代に入って、王安石の新法に反対する立場を取ります。この頃、宋は外圧に苦しみ、軍事費の増大などに伴う極度の財政赤字に悩まれます。これを解消するために行われた一連の改革を新法と言い、王安石はその旗振り役であって、神宗から絶大な信頼を勝ち得、改革を推し進めます。

王安石の新法は一部では効果を挙げましたが、全体として極めて急進的なものだったので、その分反発も大きく、新法に反対する旧法派が徐々に勢力をつけていくなど、新法・旧法の争いと呼ばれる政争に発展します。王安石の新法が進むにしたがい、蘇東坡は旧法派と見なされ、地方に左遷されます。

神宗が死去し、哲宗(1085-1100)が即位すると、旧法派が復権します。蘇東坡も中央に復帰しますが、蘇東坡は新法の全てが悪いのではなく、一部は有効な政策もあるので、それは存続させるべき、との意見を持っていたので、旧法派の内部でも孤立します。

しばらくして再び新法派が勢力を持つようになると、蘇東坡は旧法派のひとりとして、やはり左遷されます。一度広東省に飛ばされ、その後海南島にまで流されます。もはや左遷ではなく追放・流罪と言えます。この時の海南島への旅路に出てくるのが、「一場春夢」です。蘇東坡62歳のことです。

哲宗が死去し、芸術家皇帝・徽宗(1100-1125)が即位すると、新旧両党の融和が図られ、蘇東坡も許されて中央に戻りますが、その帰路、今の江蘇省あたりで客死します。66歳でした。

蘇東坡ほど、新法・旧法の争いに翻弄された政治家も珍しく、新法・旧法の争いが北宋滅亡の遠因とされていることは、蘇東坡の波乱の政治人生を見るとよく納得できます。一方で、詩人として、また書道家としては、生前より極めて高く評価された人でした。蘇東坡の栄光はむしろ芸術の方面で手に入れたものと言えそうです。それもひっくるめて、「一場春夢」なのでしょう。

2012年7月17日火曜日

痴人说梦~「大師姓何,何国人」という碑が建てられた理由

夢エピ。今回は、「痴人说梦」。

「痴人説夢」。宋の惠洪『冷斎夜話・痴人説夢』やそのほかにも、痴人のほか、「醉人」「痴儿」「呆人」も同じような意味で使われてきました。もともとはお間抜けな人に夢のお話をすると、そのお間抜けの人はそれを信じてしまった、ということで、妄想に基づいた信じがたい、絶対に無理な話をすることなどの意味。現在では、お間抜けな人のとんでもない話という意味でも使われます。

唐の高宗(628年-683年、在位649年-683年)の時代、大変な修行を積んだ高僧が諸国を漫遊していた所、ある人が高僧に話しかけました。

ある人「ご芳名は何でしょうか?」(姓何?)

高僧「名前は何です」(姓何)

ある人「ご出身の国はどこでしょうか?」(何国人?)

高僧「何の国です」(何国人)

この高僧の死後、高僧を顕彰して、碑を建てようとしました。しかし情報が全くなかったので、上記のやり取りをそのまま使うことにしたところ、「大師姓何,何国人」という碑が出来上がってしまいました。

中国・中国語において、「何」という姓も、国名もあってもおかしくないものですが、一般的に「何」は疑問(What)を意味します。そのため、碑を普通に読んでしまえば、「高僧は名前は何? どこの国の人?」ということになってしまい、意味が通じません。

高僧は、お間抜けな人に夢みたいなお話をしたら、お間抜けな人はそれを信じきってしまった、という笑い話になります。

「夢みたい」というだけで、「夢」そのものとはあまり関係ないお話でしたが、中国・中国語における「夢」の理解には役立つものだと思います。

2012年7月16日月曜日

同床异梦~同床異夢、この出典にも実は周公旦が登場

夢エピ。今回は、「同床异梦」。

宋の陳亮『与朱元晦書』にあるお話で、日本でも成語として定着した言葉です。辞書風に言えば、「同じ床に枕を並べて寝ながら、それぞれ違った夢を見ること。転じて、同じ事を行いながら、考えや思惑が異なること」(大辞泉)となります。

あまりにも有名なので、特に説明は不要かと思いますが、原文を見てみると、この説話、実は『周公解夢』の筆者とされた周公旦が絡んできます。下記が原文です。

“同床各做梦,周公且不能学得,何必一一说到孔明哉!”

諸葛孔明
前半の“同床各做梦”が「同床異夢」と転じるわけです。ただ、上記は全体を通して読んでみないと意味が通じません。

訳は、床を同じにして別々の夢を見るなら、周公旦でもお互いの気持ちを理解することはできないし、諸葛孔明をいちいち持ち出すまでもない。となるでしょうか。

そもそもこれは、夫婦のことを言っています。「床を同じに」なので当たり前ではありますが、現在の日本語の成語には上記の辞書のように、夫婦間のことにとらわれなくなってきています。

原文は、要は結局、夫婦なのにそれぞれ違うことを考えていたら、周公旦も諸葛孔明も出る幕ないね、ということを言いたいのだと考えられます。

ここでも夢と周公旦のつながりが見出せます。ただし、ここでは夢ということと周公旦が直接つながっているというよりは、むしろ諸葛孔明と並列させることによって、中国古来の“智”の代表者という位置づけで登場していると言えるでしょう。

2012年7月15日日曜日

南柯一梦~栄達から転落まで、急落差を経験する夢

夢に関する中国に古来から伝わるエピソード、略して、夢エピ。今回は、「南柯一梦」。

南柯一夢は、唐の李公佐『南柯太守伝』にあるお話。全体的なストーリーは、「黄粱一夢」、つまり邯鄲の夢、邯鄲の枕と同種なものですが、「黄粱一夢」が成功を極めた末に夢から覚める、というのと違い、「南柯一夢」は成功後から一転、大失敗となった後に夢から覚めるという構図になっています。

主人公の淳于棼という若者が、自分の誕生日に祝いに来てくれた友人と共にお酒を飲み、散会になった後、庭に出て大きな槐(えんじゅ)の木の下で眠ってしまいます。夢の中で淳さんは、槐の木に丸々と開いた大きな穴の中に導かれていきます。そこが大槐国です。淳さんは大槐国の科挙を受けて、順調に試験を通過、最終試験の皇帝面接に進みます。

面接に望んだ皇帝は淳さんの才能はもちろん、そのイケメンさにもほれ込み、淳さんは見事、科挙一等である状元になります。皇帝は自分の娘の皇女を淳さんに嫁しもしました。結婚後、まもなく淳さんは南柯太守に任じられ、南柯郡に赴きます。それから30年、淳さんは一生懸命仕事に励み、領民にも慕われ、その善政が全国的な話題にもなりました。その間に、五男二女の七人の子供にも恵まれました。皇帝はその才を愛しんで中央に呼び戻そうとしましたが、領民が淳さんの帰任を強硬に阻止、皇帝も喜んで帰任命令を取り消しました。

そうこうしているうちに、大槐国は他国に攻められます。他国の軍勢は強力で、大槐国軍はその進行を食い止めることができません。おろおろする中央高官たちが思いついたのが、淳さんを中央に呼び戻し、この難局に対応させようというものでした。皇帝もそれにうなずいて、淳さんは中央に戻り、侵略軍に対する将軍になります。

根がやる気満々の淳さんは、将軍としても張り切ってがんばろうとしますが、軍事はからっきし。侵略軍との戦闘で大敗北を喫し、率いた大軍は壊滅状態になります。失望した皇帝は淳さんを解任、平民に格下げしてしまいました。

淳さんは自分の栄達と転落のあまりの落差に、恥ずかしく、憤り、大声を上げました。

その瞬間、夢から覚めます。夢から覚めた後、大槐国への入口だった穴を探してみると、それはアリの住処となっているほどの小さな穴に過ぎませんでした。

以上のような説話です。

夢はあくまでも夢、という構図ではありますが、その夢の内容に盛者必衰を盛り込んでいる所が変わっています。現在ではその内容はともかく、「南柯一夢」は「夢のまた夢」というような意味の成語になっています。

2012年7月10日火曜日

黄粱巫峡事~黄粱、巫峽の事「邯鄲の夢と朝雲暮雨」

「黄粱巫峡事」は正確には「黄粱」「巫峡」という二つの事、二つの夢の例という意味になります。まず、「黄粱」について。これは「黄粱一夢」、つまり黄粱の一炊のほか、邯鄲の枕、邯鄲の夢など多数の呼び方がある、中国と夢のお話ということで言えば、日本で最も有名な故事でしょう。現在の夢オチの代表的な古典作品と言えます。

唐の沈既済の小説『枕中記』に収録されているもので、中国戦国時代、趙(紀元前403年 - 紀元前228年)の国の話。フリー百科事典・ウィキペディア「邯鄲の枕」から趣旨を紹介します。
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趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。

ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた栗粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
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中国でももちろん有名な話に違いありませんが、歴史的にみると、あまり顧みられることのない故事の部類に入るかもしれません。とことん現世主義の、中国的ではない、中国では好かれにくい形式ともいえます。どちらかと言えば、栄枯盛衰、諸行無常という、今も昔も、日本人好みの話です。フリー百科事典・ウィキペディアでも、

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同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。
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と分析していますが、その通りでしょう。逆に今の中国では、Q&Aサイトに「黄粱の夢ってどんなお話?」というQが投稿されるほど、あまり馴染みのないものになっています。

といっても、「邯鄲夢の枕」「邯鄲の夢」「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉は日本でも「現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっている」(フリー百科事典・ウィキペディア)ということなので、いずれ忘れ去られるかもしれません。

ではもう一つの「巫峡」について。こちらははっきり言ってしまえば、男女の営み、男女の契り・情交のこと、またはその夢、そのはかなさを指します。「巫峡」の原義はいわゆる、三峡のうちの一つです。フリー百科事典・ウィキペディアによれば、

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(一番上流にある瞿塘峡に続く巫峡は)重慶市と湖北省の境にある40km以上の長さの渓谷で、巫山山脈を北西から南東へ貫いて巫山山系の間を東西へ流れる。巫山の十二峰をはじめとする秀麗な景観が多くの文人に霊感を与えてきた。十二峰のなかでも神女峰は最高の見どころで雲の中に突端を突き出している。山が迫るために川面を太陽が照らすことは少ない。
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となります。この説明の中でも、男女の営み、特に「女神」を暗示させる言葉がいくつも出てくるのは偶然ではないでしょう。「巫峡夢」と言えば、中国の戦国時代の楚の第38代の王・頃襄王(けいじょうおう、紀元前?年-紀元前263年、在位:紀元前298年-紀元前263年。楚襄王とも)の夢の中での、「女神」とのラブロマンス、そのやり取りが元となった説話です。戦国時代の詩人・宋玉の「高唐賦」が出典です。「楚梦云雨」(楚夢雲雨、男女の緊密な様子のたとえ)という成語にもなっています。

この中から朝雲暮雨という、現在の中国でも日本でも使用されている成語が生まれてきます。朝雲暮雨こそが、男女の契り・情交のことなのです。朝雲暮雨の夢とも言います。くわしくはこちらの解説が秀逸です。特に「王因幸之」(王因りて之を幸す)は、この四文字に込められた深遠な意味を頭にはっきりと描ける、見事な表現といわざるを得ません。

そもそも、朝雲暮雨とは、朝は曇り、夕方は雨という意味で、それだけで天候の移り変わり、そこから転じて、「はかなさ」という意味合いが強くあります。国王が、夢で絶世の美女と戯れ楽しんでいたら夢から覚めた、という、まさに夢オチ。

「黄粱巫峡事」はあわせて「夢オチの事」と意訳しても良いような事例といえるでしょう。

2012年7月9日月曜日

江淹得笔聪~江淹聰し筆を得て「後には江郎才尽」

「江淹得筆聡」は、中国南北朝時代の文学者・政治家である江淹(こうえん、444年 - 505年)が見た夢です。一般的に「江淹(江郎)才尽く」というエピソードで有名であり、このエピソードも夢の話。江淹得笔聪は「江淹は聡し筆を得る」夢という意味であり、夢で筆を失ったことによって、「才尽く」となった状態とは正反対ですが、江淹が夢で「筆を得て」出世し、文学者としても大成し、また夢で「筆を失って」出世が止まり、文学者としての素質も失った、という、いわば二本立ての夢に関する説話になっていると考えた方がよいようです。

江淹
江淹は、門閥重視の貴族社会であった六朝時代(222年-589年。三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳)において、寒門(身分が低い一族)の出身でありながら、その文才と時局を的確に見定める能力によって、高位に上りつめ生涯を終えたとされています。

江淹に関する詳細は立身出世や、文学上の位置などは、フリー百科事典・ウィキペディア「江淹」などに譲りますが、江淹には先程説明したように、2種類、3つの夢に関するエピソードがあります。2種類というのは、「筆を得て」と「筆を失って」になりますが、三つの夢というのは、そのうち「筆を失って」には異説があるというものです。

まず、1種類1つの夢しかない「筆を得て」からについて。これは、「夢筆生花」とも呼ばれる故事で、まさに「江淹得笔聪」ですが、ある日の夢の中で、江淹は神人に会い、5色の神の筆を与えられます。これ以降、江淹の文才が花開き、大文学者の道を歩み、名声を勝ち得ていくことになる、というものです。『蒙求』という書物にあるお話です。

また、「夢筆生花」ということで言えば、五代十国時代の王仁裕『开元天宝遗事·梦笔头生花』に、唐の大詩人・李白の故事として出典が見られます。また、「夢筆生花」は独特の景観で有名な黄山(安徽省/現在は世界遺産)に、筆のような、峰から花が生えたような景観についても、「黄山夢筆生花」などと言われます。この「黄山夢筆生花」は、李白が黄山に遊んだ際の伝説にも登場します。

もう一つが、「筆を失って」の方で、最も有名な「江淹才尽く」「江郎才尽」です。梁の鍾嶸の『詩品』によると「江淹が宣城太守を辞任し、首都建康への帰路の途中(起源500年ごろ)、夢に郭璞を名乗る美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」というものです。劉璠の『梁典』にも似た話が収録されています。

その異説として、唐の李延寿の『南史』では『詩品』と同じような話のほかに、「夢に西晋の詩人張協(張景陽)が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒り、錦を丘遅に与えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」というもう一つのお話があります。

この故事を受け、日本では、文人の文才が枯渇することを意味するようになりましたが、中国でもそうした意味があると同時に、中国では現在においても、江淹の「才尽」を学術的に事実関係をつまびらかにしようという研究が盛んに行われています。江淹が晩年に差し掛かって文学活動を減少させていったというのは事実のようですが、それに当時の政治情勢や、江淹の生活環境の変化などで説明しよう、という試みです。

そういう説はさておき、このような夢のエピソードが本当にあったことかどうかはともかく、広く長く伝えられているのは、このような話がなければ、当時の感覚(血統主義、貴族社会)や王朝がころころと変わっていく政治情勢として、「寒門」出身者である江淹が、文学者として、またそれとも付随した政治活動としての出世として、かくも鮮やかな成功はなかったのではないか、と考えられたことによるのかもしれません。

少なくとも、夢は、当時の政治・社会状況とも密接にかかわりをもって、そのエピソードが成立している、ということは言えると思います。

2012年7月8日日曜日

丁固生松贵~丁固、貴き松が生ず「18年後には大臣に」

丁固
「丁固生松貴」は、三国時代・呉の政治家である丁固(ていこ)が、腹の上に松の木が生える夢を見、松の字が「十八公」と分解できるから、18年後に公(大臣)になるだろうと予感、それが実現したという話。

正直に言うと、現在までに、日本でも、中国でもそれほど有名というわけではありません(少なくとも庄周虚化蝶や吕望兆飞熊ほどは有名ではない)が、『周公解夢』序文に掲載されている、「中国の夢」代表5作のうちの一つなのだから、それなりの後世への影響があったと考えられます。

丁固は、若くして父親を失い、母親と二人での貧しくつつましい生活であったが、母親には孝養を尽くし、一族の中の年下の身寄りのないものたちと生計を立て、辛苦を共にしたと言われています。子供の頃、当時の大学者・闞沢(かんたく)は「この児は必ず位人臣を極めるであろう」と予言したとも言います。

「腹の上に松の木が生える夢を見た」のは紀元250年ごろと逆算されます。その頃、呉の国では二宮の変と呼ばれる政治闘争の真っ最中で、大荒れに荒れていました。丁固の名が史書に現れてくるのもこの頃で、この政争の一方の主要メンバーとして名を連ねていました。ただし、その時の位は尚書であって、太子に守り仕える立場にあったものの、決して高位ではありませんでした。

それから順調に出生し、268年に司徒に昇進しました。この時代の司徒は行政部門の最高権力者であり、軍事部門や、監察・政策立案部門の長と並んで、人臣として最高位と言えます。この時、18年前の「腹の上に松の木が生える夢を見た」こと、その実現が話題になったということになります。

司徒昇進から5年後、273年に76歳で死去しますが、丁固は、呉の末期の有能な政治家として、後世からも高く評価される人物です。

良臣の貧しい出自からの立身出世と絡めた夢のお話であり、当時の人にも広く受け入れられたものだったのでしょうが、三国志の英雄・孫権が打ち立てた呉もその末期に差し掛かっており、輝きが失われていく中でのエピソードのため、現代においては地味ととらえられ、人気が今ひとつなのかもしれません。

2012年7月7日土曜日

吕望兆飞熊~呂望、熊の飛すを兆し「太公望は夢のお告げ」

「呂望兆飛熊」は、「飛熊入夢」とも言い、周の初代国王である武王の父・西伯昌(文王)が見た夢です。あの有名な、文王と太公望呂尚の邂逅譚となっています。日本ではあまり一般的ではありませんが、「飛熊」という言葉は中国では王が優秀な臣下を見つけるという故事で、有名な単語になっています。

ある時、西伯昌は虎から2本の翼が生え、その翼を生やした虎が飛び回り、自分の近くまで来るという夢を見ました。夢見に占わせると、それは「飛熊」というもので、いずれ賢人を幕僚に招くことができる吉兆とされました。

このことがあって、渭水での釣りの場面に至ります。一説では、呂尚の号が飛熊であったことから、西伯昌はさらに喜んでこれを迎え入れたと言います。史実において、呂尚の号が飛熊というのは確認できないようで、これはあくまでも『封神演義』上での出来事ともされていますが、「飛熊」の夢の話が中国において広く認知されていたことは間違いありません。

太公望呂尚
太公望呂尚は伝説的な人で、つかみどころがありませんが、周公旦と同じく、周王朝建国の大功臣であることは間違いありません。周公旦が殷王朝打倒までにあまり目立っていないのに対して、呂尚は文王・武王二代に渡っての軍師として活躍したことが伝えられています。

様々な物語に描かれている周公旦と呂尚は、あまりお互い相容れない性格だったとされていますが、それを端的に示しているエピソードを一つ紹介します。

周王朝成立後、周公旦とその子孫が魯に封じられたのに対して、呂尚は斉の国に封じられました。ある時、周公旦と呂尚が人材について論じた際、

周公旦「血縁主義で身内を優先すべきだ」

呂尚「そんな国は外との友好が薄く諸国から領土を削り取られるだろう。能力主義を取るべきだ」

周公旦「あなたのようなやり方では家臣に乗っ取られるだろう」

というやり取りがあったといいます(『呂氏春秋』「仲冬紀・長見」)。

後世、周公旦の魯は周辺諸国との軋轢で摩滅し衰退していきます。孔子の時代(周公旦の時代より約500年後)にはもはや中小国の一つに成り下がり、その後も歴史の表舞台に立つことはありませんでした。一方、呂尚の斉は、やはりそれから700年ほど経った後、大臣の田氏による簒奪を受け、呂尚の子孫は滅亡してしまいます。

上記のような両者の会話が、本当にあったことかどうかはわかりませんが、二人のそれぞれの出自や性格、その後の結果を見事に纏め上げたものとは言えると思います。

大雑把に言ってしまえば、周公旦は孔子が崇拝して以降、当然のことながら儒学・儒教の聖人になりますが、伝説的要素満載の太公望呂尚は道教のスター(神)として広く親しまれることになるのも偶然ではないかもしれません。

周公旦の名前を冠された『周公解夢』の性質が当然、必ずしも儒学・儒教的であるわけではなく、むしろ一般に流布された風習や習俗が多く取り入れられた(その意味では道教的)ものであることは間違いありませんが、その性質を探る上で、名前を冠された周公旦の人となりを、太公望呂尚との比較で見ると、より深く理解できそうです。

2012年7月6日金曜日

庄周虚化蝶~荘周、幼蝶と虚むれ「胡蝶の夢」

中国の戦国時代の宋国の人で、道家のその一人である荘子(紀元前369年 - 紀元前286年<推定>、荘周(姓=荘、名=周))の説話。夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という内容です。

この説話の内容をより深く理解するためには荘子の考え方全体の中で位置づけなければなりませんが、簡単に言ってしまえば、「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地を指し示しています。

日本でも「胡蝶の夢」という説話として有名な話であり、全文と訳を掲載しておきます(フリー百科事典・ウィキペディア「胡蝶の夢」)。

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原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
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荘周(荘子)
荘周は、無為自然、一切斉同を説きます。徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に入り浸るとも言われていますが、この「胡蝶の夢」でも分かるように、必ずしも世俗を離れようとしているのではなく、煩雑な人為に満ちた世俗をいかに生きるか、考えるかの一つの方法論として提示していると考えた方が、荘子本来の考えを示しているように思います。

それは逆説的でもありますが、人為を極端に排除しつつも、荘周の著作や生き方から考えると、人為の極みである儒学・儒教、さらにその開祖である孔子を必ずしも批判していないことからでも明らかです。荘周はむしろ儒家出身者ではないかという説もあるぐらいですが、十分ありえるべきことで、いわばアンチテーゼとして無為を説くという姿勢があったと考えたほうが良いかもしれません。

それは、荘周の思想が、先行したとされる老子の考え方と集合して、老荘思想(道家)としてまとまり、魏晋南北朝時代(184年-589年)に一世を風靡する清談に受け継がれていくという歴史の流れにも沿うものと考えられます。逆にこの魏晋南北朝時代の貴族社会から、隋唐時代(581年-907年)に確立した、儒学・儒教一辺倒となる、いかにも中国らしい科挙制度による律令・官僚社会への変遷とも呼応しているとも言えます。