2012年7月25日水曜日

曹操が司馬氏の簒奪を予兆した夢―天下人が見る夢とは?

李淵(唐の高祖)の悪夢についての解釈で、李淵にアドバイスをしたのは側近ではなく智満禅師という李淵が親しくしていた僧だったという説もあります。『太平広記』では、李淵が倒した隋の建国者・楊堅(隋の文帝)の夢の話も載せています。

それによれば、楊堅はある日、移動中の船の中で、左腕を失うという夢を見ました。目を覚ました後、非常に不吉、不快と思いつつ、船から岸に上ると、草庵が見えました。その草庵を訪れると、独りの僧がいたので夢の話をしてみると、その僧は「それはおめでたい。独拳ということは、独権です。権力を独占できる、という意味になります」と解釈したので、楊堅は大変喜んだ、という話です。
李淵の話とほとんどそっくりです。悪夢だったが、夢を解釈してみると、皇帝になる、という点。二つとも僧が機転を利かせた解釈を行っている点などが共通しています。

さて、三国志の英雄・曹操の夢。これはかなり有名な話ですね。曹操の晩年、三頭の馬が一つの槽の飼葉を食べている夢をみました。明晰な曹操はこの夢を、「三頭の馬」=司馬氏の三人、「槽」=「曹」と解いて、いずれ司馬氏が主家である曹家を乗っ取る兆しだろうと判断します。曹操は不安を覚え、息子の曹丕(魏の初代皇帝)に注意を促しましたが、子孫は曹操の見た夢の通りとなった、というお話です。

司馬氏の三人は、「懿・師・昭」とか、「師・昭・炎」であると言われています。

断るまでもなく、今までも数々の夢に関するエピソードを紹介してきましたが、それが実際にあったこと、起きたこと、であるかどうかには特別な注意を払ってきませんでした。それは、そうした話が語り継がれてきた背景にあるものこそ重要だと考えたためです。

しかし、この曹操の話、他の夢に関するエピソードと比べても、あまりにも出来すぎていて、リアリティの欠けらもなく、うそっぽいと思うのは私だけではないでしょう。。

曹操という英雄が建てた魏があまりにもあっけなく司馬氏の手に渡ってしまったという史実に対して、曹操を弁護する立場から、実は晩年簒奪されることは予知していたが、どうにもできなかった、という形にしたものと考えられます。

もしそうであれば、こうした場合にも、夢が活用される、というケースと言えそうです。

2012年7月24日火曜日

大唐帝国建国の真の功労者、初代皇帝が見た夢が関係した?

長い歴史の中では、天下人がその天下を手中に収める、あるいは失うということに関する夢もあります。代表的なのが、唐の高祖と三国志の曹操のものです。

唐の高祖は李淵です。魏晋南北朝時代の混乱を治め、全国統一を果たした隋(581年-618年)の高官でした。反乱を起こして隋を打倒、自身の王朝として、唐(618年-907年、一時中断あり)を打ち立てます。

そんな李淵が、打倒隋に立ち上がるかいなかの頃、史実に基づけばおそらく617年、太原留守(総督)の地位にある時だったと思われますが、不気味な夢を見ます。『太平広記』や宋の時代の『紀異録』に収録された説話です。

李淵が見た夢というのは、ベッドから落ちて、蛆が身体に這い上がり、全身を覆う、というものです。「身死墜床、為群蛆所食。」とも言いますので、それであれば、死んで、ベッドから落ちて、蛆の群れに食べられてしまう、というものです。

夢から覚めた李淵は、この夢が死を予兆したもので、反乱に立ち上がっても死ぬだけだから、必ずそれは失敗する、隋の臣としてこれからもがんばった方がよい、と判断を下します。

しかし、夢の話を聞いた側近が李淵に忠告します。「ベッドの下に落ちる(落在床下)ということは、“陛下”を意味します。蛆が身体に這い上がる、ということは、多くの人に頼られることを意味します。つまり、皇帝におなりになるべきです」。

これを聞いた李淵はやっと打倒隋に立ち上がることになります。

夢判断としては、悪夢が必ずしも凶事の予兆ではないという典型といえますが、側近の解釈も少し無理はありそうです。しかし、臆した李淵を立ち直らせて、その気にさせた、この側近は大唐帝国建国の功労者といえるかもしれません。

2012年7月23日月曜日

中国の夢判断、夢占いの発展は「夢解き」民営化が原因

後漢の文人・思想家である王充の旺盛な批判精神とその著作、思想体系によって、国の「夢解き」機能(制度、官職や為政者による重視)は薄れていくことになります。

しかし王充は、讖緯説・陰陽五行説以外にも、儒学・儒教に対しても厳しい批判を行ったことから、時が下って、隋唐から宋にいたり、朱子学がまとまり普及徹底していくにしたがって、儒学・儒教をイデオロギーとする支配体制が確立すると、異端視されて省みられることがなくなっていきます。

儒学・儒教体制を否定して生まれたという経緯のある現在の中国(中華人民共和国)においては、逆に一時期、孔子や儒学・儒教に対する批判の先駆者として評価されるようになります。これは、現状を批判し(本来はその中から社会を改善していこうとする)共産党的な考え方が、王充の旧習批判と接近したものだったという背景もありそうです。

それはともかく、王充の登場と影響力拡大によって、古来より続いた国営「夢解き」という伝統は衰え、国はむしろ夢判断・夢占いには関与しなくなり、そのため、逆に「夢解き」が民間に広まっていきます。国に独占されたものが民間に開放された、とも言えます。鉄道(JR)や通信(NTT)が、民営化したのに似ています。

JRもNTTも民営化することで、様々なしがらみがなくなり、独占による形骸が打破され、競争原理が働くことによって、業界が活性化したのと同じように、中国の夢判断、夢占いもここから急発展していくことになります。

夢判断、夢占いが国営ではなくなったことは、王侯貴族や官僚など上流階層の人々がそれらを行わなくなった、信じなくなったわけではありません。むしろ、一般庶民から、高貴な身分の方々まで、上から下まで、分け隔てなく、夢判断、夢占いというものを受け入れられるようになった、と考えた方がよいようです。これも、夢判断、夢占いが中国人の間に広く深く根付くようになった要因のようです。

2012年7月22日日曜日

夢解きは国家の一大事 打破したのは後漢・王充

中国では、古代より夢は特別なものでした。これは全世界に共通する考え方ではあります。中国の歴史においては良く使われる「先秦」時代(太古から、秦の始皇帝による中国統一、紀元前221年まで)において、国事と夢は切っても切り離せない関係があり、政策や人事、外交、軍事に至るまで、夢というものが大変尊重されました。夢を占うことが、最高統治者本人の重要時でもあり、少なくとも官職として重要な地位を占めることが通例でした。

しかし、裏を返せば、この時代までは夢は政治や政府とのつながり、一部の人間による独占支配下にあったといえます。夢を見るのは王侯貴族だけではありません。普通の人々も普通に夢を見ます。そのため、中国における夢判断、夢占いの歴史は古い、とはいえますが、国の首脳の独占状態にあったがために、大衆化、一般化することなく、ある意味では閉鎖的で、そのために停滞したとも言えます。

国や政府が夢判断、夢占いを独占事業として行う、ということに転機を迎えたのが、後漢(東漢とも、紀元25年-紀元220年)の文人で、思想家である王充(おうじゅう、紀元27年-紀元97年ごろ)の登場です。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』という書の著者です。

さらっと書くとなんてことないようにみえますが、王充は上述の生没年の通り、イエス・キリストと同時代人と言えます。それだけ古い時代のことです。世界中、今の科学的な目から見れば迷信に満ちていた、それが当たり前の社会的ルールであった時代において、王充は非合理なものへの批判と合理性への追求を提唱したのです。

ちなみに、ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は動く」とつぶやいたという伝説のある地動説裁判は1633年、今からわずか400年ほど前のことです。王充は2000年も前の人になります。しかも、当時の権力者に忌避されるどころか、晩年に至るまで皇帝から官職に就くよう招聘されたとも言われます(著作への専念と病気により辞退)。

王充は王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などを批判しています。その中に夢判断、夢占いが含まれていました。王充の批判以後、徐々に国の機能としての「夢解き」が薄れていくことになります。

2012年7月21日土曜日

兰花妙梦~晋の文公・重耳に寵愛された鄭の穆公の誕生譚

周王室と同族の君主によって治められた、鄭という国が紀元前806年-紀元前375年まで、つまり西周時代から春秋戦国時代まで存在していました。現在の河南省のあたりとなります。河南省の省都は今でも「鄭州」です。

その第10代の君主に文公(ぶんこう、紀元前?年-紀元前628年)がおり、その愛妾に燕姞という女性がいました。ある日、燕姞は不思議な夢を見ました。夢の中に、一人の天使が現れ、彼女に美しく香り豊かな蘭の花を贈ったのです。天使は、「これはあなたの息子に与えるものです」と言ったところ、燕姞は夢から覚めました。

夢から覚めた後、燕姞は身体に蘭の花の香りが染み込んでいく感覚を覚えました。しばらくして、彼女は懐妊します。その後、男の子を無事に出産、夢の内容にちなんで、「蘭」と名づけられました。いろいろな数奇な運命を経て、「蘭」は父・文公の後をついで、次代の鄭の国の君主になります。

燕姞が蘭を生んだのは文公24年(紀元前649年)と言われています。それから12年後、つまり蘭が12歳の時、鄭の国に晋の公子・重耳(ちょうじ)が訪れます。重耳は、晋の国内事情によって各国を放浪しなければならなかったのですが、鄭の文公はこの亡命公子を冷遇してしまいます。

春秋・戦国時代という戦乱の世では、亡命公子は全く珍しくなく、いちいち厚遇しているわけにもいかなかったのでしょうし、重耳もほとんどの国でつらい思いをしてきたので、鄭ばかりが悪いわけではないのですが、重耳を冷遇したことが、文公、そして蘭(後の穆公)の運命を変えます。

晋に戻って君主の座に就いた重耳が、後に晋の文公と呼ばれ、この時代を代表する君主の一人で、晋を超大国に成長させていく名君(宮城谷昌光氏の小説「重耳」が詳しい)ですが、冷遇してしまった鄭の文公はこの晋の文公と対立することになり、文公43年(前630年)、晋軍に鄭(当時の国は都市国家)を包囲される事態になりました。

鄭の文公は、自身の公子をことごとく追放、その中に蘭もいました。蘭は、晋に亡命します。蘭は晋の文公に寵愛され、晋の文公が後ろ盾になって、蘭を鄭に戻し、晩年の鄭の文公も折れて、蘭を太子にしました。文公45年(前628年)、文公が薨去し、太子の蘭が鄭の君主になります。後に鄭の穆公(ぼくこう、紀元前649年-紀元前606年 在位:紀元前627年-紀元前606年)と呼ばれます。

鄭は周王朝において交通の要衝として初期は栄え、天下に号令することもありましたが、文公・穆公の時代になると、北の超大国・晋と、南の超大国・楚にはさまれ、両大国間に翻弄される(自ら後背を繰り返す)国になりました。

穆公も誕生秘話や、晋の文公の後ろ盾による鄭への復帰と立太子は華やかでしたが、それ以外、特に君主となって以降目立った事績はありません。穆公の孫に、春秋時代最高の宰相、最大の政治家である子産(しさん 紀元前?年-紀元前522年)が出ますが、このことが穆公の歴史における最後の輝きになりました。

子産についても、宮城谷昌光氏の小説「子産」に詳しく描かれています。

なぜその穆公の誕生秘話が今に語り継がれる中国の夢の代表的なエピソードになったのか、大変不思議です。当時の英雄・晋の文公に寵愛された縁起だったのかもしれません。晋の文公の事績は、伝承や伝説を除いて正史に描かれているだけでも微に入り細にわたります。とても紀元前に生きた人の記録とは思えないほど豊富です。それだけ当時においては大きな存在だったと考えられます。蘭に対する寵愛にもそれなりの理由が求められたのかもしれません。

現代中国でも、女性が蘭の花の夢を見ると、それは懐妊の兆候、特に男子誕生を予兆させるものと考えられています。そうしてみると、実際の鄭の穆公・蘭は、少なくとも君主になって以降は歴史の主役とはなりえませんでしたが、死後、その後長きに渡って、今でも確実に中国文化の中で生き続けていると言えそうです。

2012年7月20日金曜日

重温旧梦~一度過ぎ去った光景を思い出す

日本語の漢字:重温旧夢

意 味:古い夢を改めて思い浮かべる。一度過ぎ去った光景を思い出す。旧梦重温とも。

出 典:清·丘逢甲《岭云每日楼诗钞·重过感旧园二首》诗:“水木清华负郭园,三年客梦此重温。眼中故物诗留壁,身后浮文酒满樽。”

得失皆梦~故事成語の宝庫『列子』記載、得るも失うも全て夢

「得失皆梦」は、『列子』に収録されているエピソードです。列子(れっし)は、春秋戦国時代の人、河南鄭州人である列御寇のこととされていますが、正式な記録もなく、実在が疑われている人でもあります。『列子』も道家思想を汲みながら、一部に仏教思想も見られることから、一部は後世に追加されたものとも考えられる書籍です。

しかし、『列子』は故事成語の宝庫で、杞憂、朝三暮四、愚公山を移す、男尊女卑など、日本でも馴染み深い言葉の出典になっています。疑心暗鬼という言葉も、本文にはないものの、その注から生まれた言葉になります。

「得失皆梦」はそれらと比べると、有名ではありませんが、奥深い話となっています。

蒔き拾いの人が、偶然、傷を負った鹿を打ち殺しました。とりあえず、その死骸を路傍に芭蕉の葉で蓋をして隠します。用が済んで鹿を隠したところまで戻ってくると、隠し場所を探すことができなくなってしまいました。そのため、彼は自分が夢を見ていたのだと思ってしまいます。

家に帰る途中、この蒔き拾いの人はこの奇怪な“夢”を別のある人に話しました。ある人はその話を聞いた後、隠し場所に行ってみると、鹿を見つけ出すことができました。ある人は鹿を家に持って帰り、得意げに奥さんに話しました。「あの蒔き拾いの人、鹿を打ったのに、得られず、夢を見たようだ」。奥さんが言いました。「あんたも今、鹿を得たのだから、夢を見ているかもしれないよ」。

蒔き拾いの人は自分の“夢”を忘れず念じ続けたため、その夜、本当に夢を見ました。その夢の中で、自分が鹿を隠した場所を見、また自分が話をしたある人が鹿を持ち帰ったことまで夢で見ました。次の日、蒔き拾いの人は鹿を持ち帰ったある人を探し出し、二人は喧嘩を始めます。

得るも失うも全て夢、ということになります。道家らしい説話と言えそうです。

2012年7月19日木曜日

至人无梦~高尚な人は、くだらない夢は見ない

日本語の漢字:至人無夢

意 味:上品で徳があり高尚な人は、未熟な人間が漠然と見る夢は見ない。

出 典:清·钱彩《说岳全传》第五十九回:“自古至人无梦,梦境忽来,未必无兆。”

中国の七大千古奇夢について

中国にはいろいろな夢に関するエピソードがあります。『周公解夢』の扉文に掲載されている5つの事例のほかに、「七大千古奇夢」という呼び方もあります。つまり、「七つの古から伝わる奇妙な夢」です。

中国は、今も昔も事物に対して、「○大」~~と代表的事例を一括りにまとめ紹介するのが好きで、「○大」として取り上げる事例も違ってくる場合もありますが、「七大千古奇夢」は一般的に次の七つです。

1.庄周梦蝶

2.得失皆梦

3.南柯一梦

4.黄粱美梦

5.梦见周公

6.兰花妙梦

7.梦笔生花

このうち、「庄周梦蝶」「南柯一梦」「黄粱美梦」「梦笔生花」はすでに紹介しています。「梦见周公」についても触れました。孔子が敬愛し崇拝する周公旦を夢に見なくなったことによって、老い衰えたことを嘆いたというものです。

そのことから「梦见周公」はもともと老い衰えたことを嘆くという意味で使われていましたが、今では眠気やうとうとすることにも使われるようです。

次回以降、まだ触れていない「得失皆梦」と「兰花妙梦」を紹介します。

2012年7月18日水曜日

如梦初醒~もやもやが霧散、はっきり分かり出す

日本語の漢字:如夢初醒

意 味:今まで夢のようにもやもやしていたことが、何らかのきっかけではっきりと分かり出すこと。如梦方醒とも。広東語の歌曲の名前としても有名。

出 典:明·冯梦龙《东周列国志》第十一回:“寡人闻仲之言,如梦初醒。”

一场春梦~蘇東坡の栄光と没落、翻弄された政治人生

夢エピ。今回は、「一场春梦」。

「一場春夢」。人生は夢、幻のようなもの、という意味。幻滅、というニュアンスがあります。夢に関わるエピソードとしてはよくあるパターンではありますが、この故事が蘇東坡に由来するものなので、紹介します。

蘇軾(そしょく、1037年-1101年)は北宋の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれます。唐宋八大家の一人で、この時代を代表する文豪であり、中国の数千年という長い歴史の中でも、もしかすると10本の指に入る芸術家かもしれません。

この夢の故事自体、ひどい境遇に遭って、晩年に僻地に左遷され、しかも左遷先まで非常に貧しいなりで移動することになった蘇東坡。その姿を見た、蘇東坡の栄光と没落を知っている老婆が、「昔はあれだけの栄華を誇っていたのに、(今の凋落振りを見ると)まるで一つの春の夢のようだ」と言ったことにちなむものです。

蘇東坡は今で言う四川省の出身。20歳の時に科挙に合格して進士となり、規定どおりに地方官を歴任、宋の英宗(在位:1063年-1067年)の時代に中央入りを果たします。ちなみに、英宗も夢にまつわる出生譚があります。

次の神宗(1067年-1085年)の時代に入って、王安石の新法に反対する立場を取ります。この頃、宋は外圧に苦しみ、軍事費の増大などに伴う極度の財政赤字に悩まれます。これを解消するために行われた一連の改革を新法と言い、王安石はその旗振り役であって、神宗から絶大な信頼を勝ち得、改革を推し進めます。

王安石の新法は一部では効果を挙げましたが、全体として極めて急進的なものだったので、その分反発も大きく、新法に反対する旧法派が徐々に勢力をつけていくなど、新法・旧法の争いと呼ばれる政争に発展します。王安石の新法が進むにしたがい、蘇東坡は旧法派と見なされ、地方に左遷されます。

神宗が死去し、哲宗(1085-1100)が即位すると、旧法派が復権します。蘇東坡も中央に復帰しますが、蘇東坡は新法の全てが悪いのではなく、一部は有効な政策もあるので、それは存続させるべき、との意見を持っていたので、旧法派の内部でも孤立します。

しばらくして再び新法派が勢力を持つようになると、蘇東坡は旧法派のひとりとして、やはり左遷されます。一度広東省に飛ばされ、その後海南島にまで流されます。もはや左遷ではなく追放・流罪と言えます。この時の海南島への旅路に出てくるのが、「一場春夢」です。蘇東坡62歳のことです。

哲宗が死去し、芸術家皇帝・徽宗(1100-1125)が即位すると、新旧両党の融和が図られ、蘇東坡も許されて中央に戻りますが、その帰路、今の江蘇省あたりで客死します。66歳でした。

蘇東坡ほど、新法・旧法の争いに翻弄された政治家も珍しく、新法・旧法の争いが北宋滅亡の遠因とされていることは、蘇東坡の波乱の政治人生を見るとよく納得できます。一方で、詩人として、また書道家としては、生前より極めて高く評価された人でした。蘇東坡の栄光はむしろ芸術の方面で手に入れたものと言えそうです。それもひっくるめて、「一場春夢」なのでしょう。

2012年7月17日火曜日

梦中说梦~無駄なこと、でたらめなこと

日本語の漢字:夢中説夢

意 味:仏教用語に、やはり日本語としてもある。中国では、夢の中で他人のために夢を説くことであり、無駄なこと、でたらめなことというニュアンスが強いが、日本においては、もっと積極的な意味で解釈しようとするものもあるようです。参照

痴人说梦~「大師姓何,何国人」という碑が建てられた理由

夢エピ。今回は、「痴人说梦」。

「痴人説夢」。宋の惠洪『冷斎夜話・痴人説夢』やそのほかにも、痴人のほか、「醉人」「痴儿」「呆人」も同じような意味で使われてきました。もともとはお間抜けな人に夢のお話をすると、そのお間抜けの人はそれを信じてしまった、ということで、妄想に基づいた信じがたい、絶対に無理な話をすることなどの意味。現在では、お間抜けな人のとんでもない話という意味でも使われます。

唐の高宗(628年-683年、在位649年-683年)の時代、大変な修行を積んだ高僧が諸国を漫遊していた所、ある人が高僧に話しかけました。

ある人「ご芳名は何でしょうか?」(姓何?)

高僧「名前は何です」(姓何)

ある人「ご出身の国はどこでしょうか?」(何国人?)

高僧「何の国です」(何国人)

この高僧の死後、高僧を顕彰して、碑を建てようとしました。しかし情報が全くなかったので、上記のやり取りをそのまま使うことにしたところ、「大師姓何,何国人」という碑が出来上がってしまいました。

中国・中国語において、「何」という姓も、国名もあってもおかしくないものですが、一般的に「何」は疑問(What)を意味します。そのため、碑を普通に読んでしまえば、「高僧は名前は何? どこの国の人?」ということになってしまい、意味が通じません。

高僧は、お間抜けな人に夢みたいなお話をしたら、お間抜けな人はそれを信じきってしまった、という笑い話になります。

「夢みたい」というだけで、「夢」そのものとはあまり関係ないお話でしたが、中国・中国語における「夢」の理解には役立つものだと思います。

2012年7月16日月曜日

恍如梦境~「何だ、夢か」的なニュアンス

日本語の漢字:恍如夢境

意 味:まるで夢の中にいるよう。日本語の「まるで夢のよう」というような言い回しの場合、喜悦などの感情が含まれる場合が多いが、この言葉はどちらかと言うと、「何だ、夢か」のような若干後ろ向きのニュアンスがある。

出 典:清·蒲松龄《聊斋志异·张鸿渐》:“两相惊喜,握手入帷。见儿卧床上,慨然曰:‘我去时儿才及膝,今身长如许矣!’夫妇依倚,恍如梦寐。”

同床异梦~同床異夢、この出典にも実は周公旦が登場

夢エピ。今回は、「同床异梦」。

宋の陳亮『与朱元晦書』にあるお話で、日本でも成語として定着した言葉です。辞書風に言えば、「同じ床に枕を並べて寝ながら、それぞれ違った夢を見ること。転じて、同じ事を行いながら、考えや思惑が異なること」(大辞泉)となります。

あまりにも有名なので、特に説明は不要かと思いますが、原文を見てみると、この説話、実は『周公解夢』の筆者とされた周公旦が絡んできます。下記が原文です。

“同床各做梦,周公且不能学得,何必一一说到孔明哉!”

諸葛孔明
前半の“同床各做梦”が「同床異夢」と転じるわけです。ただ、上記は全体を通して読んでみないと意味が通じません。

訳は、床を同じにして別々の夢を見るなら、周公旦でもお互いの気持ちを理解することはできないし、諸葛孔明をいちいち持ち出すまでもない。となるでしょうか。

そもそもこれは、夫婦のことを言っています。「床を同じに」なので当たり前ではありますが、現在の日本語の成語には上記の辞書のように、夫婦間のことにとらわれなくなってきています。

原文は、要は結局、夫婦なのにそれぞれ違うことを考えていたら、周公旦も諸葛孔明も出る幕ないね、ということを言いたいのだと考えられます。

ここでも夢と周公旦のつながりが見出せます。ただし、ここでは夢ということと周公旦が直接つながっているというよりは、むしろ諸葛孔明と並列させることによって、中国古来の“智”の代表者という位置づけで登場していると言えるでしょう。

2012年7月15日日曜日

好梦难成~夜、寝ている時に良い夢を見るのも難しい

日本語の漢字:好夢難成

意 味:よい夢の実現は難しい。そのままだが、夜、寝ている時に良い夢を見ようとすること自体、簡単なことではない、というニュアンスも。

出 典:宋·聂胜琼《鹧鸪天·寄李之问》:“寻好梦,梦难成;有谁知我此时情。枕前泪共帘前雨,隔个窗儿滴到明。

南柯一梦~栄達から転落まで、急落差を経験する夢

夢に関する中国に古来から伝わるエピソード、略して、夢エピ。今回は、「南柯一梦」。

南柯一夢は、唐の李公佐『南柯太守伝』にあるお話。全体的なストーリーは、「黄粱一夢」、つまり邯鄲の夢、邯鄲の枕と同種なものですが、「黄粱一夢」が成功を極めた末に夢から覚める、というのと違い、「南柯一夢」は成功後から一転、大失敗となった後に夢から覚めるという構図になっています。

主人公の淳于棼という若者が、自分の誕生日に祝いに来てくれた友人と共にお酒を飲み、散会になった後、庭に出て大きな槐(えんじゅ)の木の下で眠ってしまいます。夢の中で淳さんは、槐の木に丸々と開いた大きな穴の中に導かれていきます。そこが大槐国です。淳さんは大槐国の科挙を受けて、順調に試験を通過、最終試験の皇帝面接に進みます。

面接に望んだ皇帝は淳さんの才能はもちろん、そのイケメンさにもほれ込み、淳さんは見事、科挙一等である状元になります。皇帝は自分の娘の皇女を淳さんに嫁しもしました。結婚後、まもなく淳さんは南柯太守に任じられ、南柯郡に赴きます。それから30年、淳さんは一生懸命仕事に励み、領民にも慕われ、その善政が全国的な話題にもなりました。その間に、五男二女の七人の子供にも恵まれました。皇帝はその才を愛しんで中央に呼び戻そうとしましたが、領民が淳さんの帰任を強硬に阻止、皇帝も喜んで帰任命令を取り消しました。

そうこうしているうちに、大槐国は他国に攻められます。他国の軍勢は強力で、大槐国軍はその進行を食い止めることができません。おろおろする中央高官たちが思いついたのが、淳さんを中央に呼び戻し、この難局に対応させようというものでした。皇帝もそれにうなずいて、淳さんは中央に戻り、侵略軍に対する将軍になります。

根がやる気満々の淳さんは、将軍としても張り切ってがんばろうとしますが、軍事はからっきし。侵略軍との戦闘で大敗北を喫し、率いた大軍は壊滅状態になります。失望した皇帝は淳さんを解任、平民に格下げしてしまいました。

淳さんは自分の栄達と転落のあまりの落差に、恥ずかしく、憤り、大声を上げました。

その瞬間、夢から覚めます。夢から覚めた後、大槐国への入口だった穴を探してみると、それはアリの住処となっているほどの小さな穴に過ぎませんでした。

以上のような説話です。

夢はあくまでも夢、という構図ではありますが、その夢の内容に盛者必衰を盛り込んでいる所が変わっています。現在ではその内容はともかく、「南柯一夢」は「夢のまた夢」というような意味の成語になっています。

2012年7月14日土曜日

好梦不长~実際と乖離した幻想は実現できず

日本語の漢字:好夢不長

意 味:よい夢は長く続かないということだが、ニュアンスとしては、実際と乖離した幻想は実現できず、夢幻の中にしか存在できないという意味が強い。

『周公解夢』による夢解きの方法 前提と五種類

夢の内容を解いて、判断し、占うことになりますが、この夢解きにはもちろん唯一正しい正解があるわけではなく、辞典を引くようには簡単にはいきません。『周公解夢』にしても、夢解きのヒントなわけであって、それそのものが正解を指し示すものではありません。

夢解きの際に肝心なのは、夢を見た時の環境を思い出すことです。夢解きは必ずしも夢の内容だけで判断するものではなく、各種の環境、特にその夢を見た時点でのその人の潜在意識を探ることも重要です。

とは言っても、目に見えないから潜在意識なのであって、その潜在意識を探ることは並大抵ではありません。だから、言葉にできること、文字にできることは全てつまびらかにした上で、夢の内容を解いていく必要があります。

また、夢から覚めて、その夢の内容を探ろうとする時、意識・無意識のうちに、その夢の内容に整合性を持たせるような作業を行っている場合もあり、そうした作業を通じた「夢の修復」後の夢の内容を解いていくことにはあまり意味はありません。そのため、夢解きでは、下手に整合性を持たせようとするのではなく、夢に見た事象、事物をキーワード的に抽出する、ぐらいの気持ちが良いかもしれません。

小魚が渓流で気持ちよさそうに泳いでいる光景を見た。

とします。その際、自分の視点がどこだったのか(小魚だったのか、その渓流を見渡せる場所に立っていたか、など)は重要ですが、「この渓流は、確か私の故郷の近くの…」などと無理に「思い出そうとする(往々にしてそれは夢から覚めた後の“修復”作業です)」必要はありません。「小魚」「渓流」「気持ちよさそう」「泳いでいる」というのが重要になってくるわけです。

その上で、『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いにおいては、大きく以下の通りに夢解きの方法を分類します。

1.夢は事実の反映である。

「日ごろ思っていることを、夢でも見る」という状態です。夢を見る、というのは非常に正常なことであり、多くの人が夢を見ます。夢から覚めた後、この夢は以前に起きたことだ、あるいは以前にも見た夢だ、現在もそうしたことが起きている、事実と夢は完全に一致している、という状態で、「夢は事実の反映である。」となります。これはそのままのことなので、夢解きも何も必要ありません。

2.夢は天の啓示である。

中国人は天、あるいは天帝というものの存在を古来より信じています。これはある意味で複雑で、ある意味では簡単な概念でもありますが、ここでは人ではない人間世界の営みを大局的に見渡し、何もなければ天命を授けた人間の支配に任せ、何かあれば間接的に介入する存在と理解してください。

古来から、夢は天が人に対して行うお告げだという考え方が中国にあります。あるいは、夢という手段を通じて、天と人がコミュニケーションをとるという考え方になります。中国の天という概念、人格としての天帝、それらを内包する“大道の理”、それらが夢を通じて訴えかけてくる、ということになります。

この種の夢こそ、『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いが解決すべき課題となります。

3.夢は自身の生命の暗示である

これも中国の文化と密接に関わってくる種類のもので、漢方、いわゆる中医学です。中医学では人体の陰陽の不調が、その人の気に関わってくる、その気の盛衰が病気になるかどうかを決めるという考え方があり、その点日本でも「病は気から」などの言い方と似通っている部分があります。
その気や気の動きが、夢を見させるという考え方です。例えば、大火、特に自分の身体を焦がすような苦しい大火の夢を見たとすると、陽の気が旺盛すぎ、陰の気とのバランスが取れておらず、口内炎などの実体症状が起こる前触れととらえます。

また、もし夢の中で自分が怒りっぽくなっており、大いに怒っていれば、それはもしかすると肝臓に問題があるかもしれません。肝臓に熱がこもり、容易に肝臓の病気にかかる予兆を示すと考えられています。

もし大いに恐れているような夢を見た場合、その恐れで頭がおかしくなり、泣き出すような事態になっていれば、肺に異常がある可能性があります。

4.夢は事実と異なる、対極にあるもの。

夢と、夢から覚めた後の事実が大いに異なる、真反対だ、というケースは古来より報告されています。こうしたケースも、物事には必ず両面があるという至って自然の摂理に沿った、正常なことであると考えられます。特に極端な夢の内容の場合、そうしたケースが多いとされます。

例えば、人が死ぬ夢を見た場合、夢から覚めた後は大吉となる、とか、自分が死ぬ夢を見た場合、逆に長寿を寿ぐもの、とか、大もうけをする夢を見た場合、まもなく破産する、とか、誰かが大笑いしている夢を見ると、その人は実は大きな災いが訪れようとしている、とか、などが一例です。
この部分でも、経験則に基づき、長い歴史によってノウハウを蓄積してきた『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いにおける夢解きの最も得意とするところとなります。

5.別の方法を用いて解く(別解)。

夢から覚めた後、その内容を卜占などによって改めて夢解きするようなケースです。卜占による吉凶が、夢の内容そのものの吉凶と繋がっていると考えます。卜占に限らず、八字五行なども利用します。

しかし、八字五行は中国の占卜算命では基礎中の基礎であり、『周公解夢』の夢解きも通常、多かれ少なかれ必須のデータになることが多いので、そうした意味では、夢の内容だけで夢解きを行い、夢判断・夢占いするわけではない、という原則から考えれば、全てがこの別解にならざるを得ない、とも言えます。

2012年7月13日金曜日

熊罴入梦~熊の夢入り、男子誕生

日本語の漢字:熊罴入夢

意 味:熊の夢入り。熊の夢を見ること。子どもが生まれたこと。特に男子。

出 典:《诗经·小雅·斯干》:“维熊维罴,男子之祥。”

警察、警察官と、裁判官の夢~中国伝統的な夢判断

『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いの代表的な事例を紹介します。とは言っても、実際の夢としてはリアリティに欠けるものが多いので、これらはあくまでも『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いを理解するための初歩的知識としてとらえ、鵜呑みにしないことが肝要です。

少しぴんと来ない文章もあるかとは思いますが、ここで言いたいのは、同じ警察、警察官、裁判官、裁判所などの夢でも、内容によって、見る人によって、判断は全く異なってくる、ということです。

警察が立っている夢を見ると、危険が迫っています。

自分が逮捕される夢を見ると、政府官僚に好かれる人(悪人)になれます。

常習犯が警察が犯罪者を捕まえる夢を見れば、多く逮捕者が出るほど、大金持ちになります。

警察官と話をしている夢を見ると、出世します。

女性が警察官と話をしている夢を見ると、だんなさんの大事なものが傷つきます。

囚人が警察官と話をしている夢を見ると、まもなく釈放です。

商人が警察官と話をしている夢を見ると、競合に対する備えが必要です。

政府指導者が警察官と話をしている夢を見ると、政府も警察も自分を尊重するようになります。

警察官とケンカする夢を見ると、それは凶兆であり、自分の狙っている人や強盗が自分を脅かしつつあることを示します。

未婚の男子が警察官とケンカする夢を見ると、恋人とともに逃げ出す事態に遭遇します。

男性が援助を求めている夢を見ると、その人は幸せに慣れます。

女性が警察官に助けを求める夢を見ると、すぐに釈放されます。

警察官に叩かれる夢を見ると、公金を横領し、損害が大きくなります。

自分が警察官になる夢を見ると、威信も信用も失います。

警官の制服を着る夢を見ると、刑事事件に巻き込まれます。

裁判官と出会う夢を見ると、家庭内不和が起きるか、官僚になろうとして浪費します。

自分が官僚になる夢を見ると、高位になれます。

自分が犯罪を犯し、裁判所に引き渡される夢を見ると、法的制裁を受けます。

裁判官の心が弾んでいる夢を見ると、祖先の遺産を継承できます。

2012年7月12日木曜日

更长梦短~夜長く、夢短し

日本語の漢字:更長夢短

意 味:夜長く、夢短し。思い悩むことが多く、よく眠れないことのたとえ。更は昔の夜間における時間の単位。一更は二時間程度に相当する。

出 典:明·胡文焕《群音类选〈清腔类·步步娇〉》

中国の夢判断・夢占いの根底にある、夢の15の類型

『周公解夢』の扉文に挙げられた、中国を代表するともいえる五つ(実際はもう少し複数)の夢に関するエピソードが、夢解きの第一歩としての、パターンや類型の一部を提示しているように、『周公解夢』及び中国の夢判断・夢占いの根底にある、夢の15の類型を説明します。

・直夢

夢で見たものが起こる、夢で見た誰かに実際にも会う、ということ。人の夢は全て象徴的なもので、様々な意味合いを含むものや、直接的なものがあるとされ、「直夢」はその直接的な暗示の夢を指します。

・象夢

夢の中での出来事を象徴的な手段を通じて表現するものです。天に登る夢を見たとすれば、実際には天というものはないので、何らかの象徴であることが考えられます。この場合、天は健康、富貴、帝王を示している可能性があります。

・因夢

睡眠時の五感に対する刺激によって夢を見るという考え。陰の気が満ちている時は大水の夢を見、楊の気が満ちている時は大火の夢を見、帯を締めて寝れば蛇の夢を見、飛ぶ鳥をイメージして寝れば飛ぶ夢を見るということになります。

・想夢

自分の想っていることがそのまま夢になって現れること。心のうちで強く念じ、想っていれば、「日々それを想い、夢にも見る」状態になります。

・精夢

精神状態が見させる夢。その時々の精神状態によって、念じとことん想って見る夢であって、その意味では、「想夢」の一種。

・性夢

人の性情や好悪によって見る夢。これは夢を見る原因を言ったものではなく、夢を占う時の態度について言ったもの。

・人夢

同じような夢の内容でも、見た人が違えば、その意味も違ってくるということ。

・感夢

気象条件などによって作り出される夢。

・反夢

真逆の夢。陰極が吉で、陽極が凶。「邯鄲の夢」が好例で、こうなればいいな、というような夢の内容は、実は現実社会ではそうなっていない、ということ。中国では古来より、人が夢見る中で、最も多いパターンとされている。

・籍夢

託夢とも。神霊や祖先が夢を通じて自分の吉凶や禍福を示してくれる夢。

・寄夢

Aさんの吉凶禍福がBさんの夢に出てきて、Bさんの吉凶禍福がAさんの夢に出てくるようなケース。あるいはそれぞれ離れているのに、同じような夢を見る場合。人々の間の信心や一種のテレパシーが形作る夢。

・転夢

夢の内容が変幻自在である様。

・病夢

漢方的に、人体の陰陽五行が失調した時に見る夢。

・鬼夢

いわゆる悪夢。夢の内容が恐ろしく怖い夢。睡眠障害。睡眠の姿勢が正しくないか、身体が何らかの病に冒されている時に見る夢。

2012年7月11日水曜日

大梦初醒~誤りに気づき、正しいことに目覚め始める

日本語の漢字:大夢初醒

意 味:長い間覆い隠されて見えなかった誤りが、その誤りに気づき、正しいことに目覚め始めること。

出 典:《庄子·齐物论》

『周公解夢』の扉文にある、中国を代表する五つの夢のエピソード

今まで、庄周虚化蝶吕望兆飞熊丁固生松贵江淹得笔聪黄粱巫峡事という『周公解夢』の扉文に挙げられた、中国を代表するともいえる五つ(実際はもう少し複数)の夢に関するエピソードを紹介してきました。扉文にあるように、「紛紛たる夢はこれだけにきわまるものでは」ありませんが、これらのエピソードは少なくともいくつかのパターンを提示しているとは言えるでしょう。

庄周虚化蝶

胡蝶の夢。「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地。これが事例の中でも最初に挙げられたのは、最も有名な夢に関するエピソードだからだけではなく、「夢」というもの、さらにその「夢解き」の極意を示すものだからだとも考えられます。

しかしこの境地、荘周の思想が色濃く反映しており、行き着く所は「無為」となり、実は現世主義の中国人とは対極の考え方を示すものとも言え、「邯鄲の枕」と同様、中国においては有名ではありますが、主流とはなりえないとも言えます。

これからも夢に関するエピソードを紹介してきますが、存外、道家思想に基づく内容のものというのは多いものです。庄周虚化蝶はもちろん、「邯鄲の枕」もそうと言えます。“存外”ではなく、必然かもしれません。中国人にとっての夢、というのはそのようなとらえ方だ、少なくともそのようなとらえ方もされる、と考えられます。

現実と夢をどのように整合性を取ってゆくのか、そして夢を解釈していくのか、という問題提起として、『周公解夢』の扉文に示された事例冒頭を飾るのに適した材料とは言えるでしょう。

吕望兆飞熊

夢を現実の吉兆(逆の意味での凶兆)としてとらえるパターンの代表例。

丁固生松贵

夢を将来的な成功、立身出世(逆の意味での失敗、衰退)としてとらえる、因果応報的なパターンの代表例。

江淹得笔聪

人生の成功と没落を夢と因果付けるパターンの代表例。

黄粱巫峡事

「邯鄲の夢」と「男女の情交及びはかなさ」という意味で、夢そのもののはかなさを暗示するもの。
おおよそ、以上のように総括できると思います。

2012年7月10日火曜日

春梦无痕~春の夢も簡単に消えてしまう

日本語の漢字:春夢無痕

意 味:春の夢も簡単に消えてしまい、少しの痕跡もとどめない。移り変わりが激しいさま。

出 典:宋·苏轼《与潘郭二生出郊寻春》

黄粱巫峡事~黄粱、巫峽の事「邯鄲の夢と朝雲暮雨」

「黄粱巫峡事」は正確には「黄粱」「巫峡」という二つの事、二つの夢の例という意味になります。まず、「黄粱」について。これは「黄粱一夢」、つまり黄粱の一炊のほか、邯鄲の枕、邯鄲の夢など多数の呼び方がある、中国と夢のお話ということで言えば、日本で最も有名な故事でしょう。現在の夢オチの代表的な古典作品と言えます。

唐の沈既済の小説『枕中記』に収録されているもので、中国戦国時代、趙(紀元前403年 - 紀元前228年)の国の話。フリー百科事典・ウィキペディア「邯鄲の枕」から趣旨を紹介します。
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趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。

ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた栗粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
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中国でももちろん有名な話に違いありませんが、歴史的にみると、あまり顧みられることのない故事の部類に入るかもしれません。とことん現世主義の、中国的ではない、中国では好かれにくい形式ともいえます。どちらかと言えば、栄枯盛衰、諸行無常という、今も昔も、日本人好みの話です。フリー百科事典・ウィキペディアでも、

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同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。
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と分析していますが、その通りでしょう。逆に今の中国では、Q&Aサイトに「黄粱の夢ってどんなお話?」というQが投稿されるほど、あまり馴染みのないものになっています。

といっても、「邯鄲夢の枕」「邯鄲の夢」「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉は日本でも「現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっている」(フリー百科事典・ウィキペディア)ということなので、いずれ忘れ去られるかもしれません。

ではもう一つの「巫峡」について。こちらははっきり言ってしまえば、男女の営み、男女の契り・情交のこと、またはその夢、そのはかなさを指します。「巫峡」の原義はいわゆる、三峡のうちの一つです。フリー百科事典・ウィキペディアによれば、

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(一番上流にある瞿塘峡に続く巫峡は)重慶市と湖北省の境にある40km以上の長さの渓谷で、巫山山脈を北西から南東へ貫いて巫山山系の間を東西へ流れる。巫山の十二峰をはじめとする秀麗な景観が多くの文人に霊感を与えてきた。十二峰のなかでも神女峰は最高の見どころで雲の中に突端を突き出している。山が迫るために川面を太陽が照らすことは少ない。
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となります。この説明の中でも、男女の営み、特に「女神」を暗示させる言葉がいくつも出てくるのは偶然ではないでしょう。「巫峡夢」と言えば、中国の戦国時代の楚の第38代の王・頃襄王(けいじょうおう、紀元前?年-紀元前263年、在位:紀元前298年-紀元前263年。楚襄王とも)の夢の中での、「女神」とのラブロマンス、そのやり取りが元となった説話です。戦国時代の詩人・宋玉の「高唐賦」が出典です。「楚梦云雨」(楚夢雲雨、男女の緊密な様子のたとえ)という成語にもなっています。

この中から朝雲暮雨という、現在の中国でも日本でも使用されている成語が生まれてきます。朝雲暮雨こそが、男女の契り・情交のことなのです。朝雲暮雨の夢とも言います。くわしくはこちらの解説が秀逸です。特に「王因幸之」(王因りて之を幸す)は、この四文字に込められた深遠な意味を頭にはっきりと描ける、見事な表現といわざるを得ません。

そもそも、朝雲暮雨とは、朝は曇り、夕方は雨という意味で、それだけで天候の移り変わり、そこから転じて、「はかなさ」という意味合いが強くあります。国王が、夢で絶世の美女と戯れ楽しんでいたら夢から覚めた、という、まさに夢オチ。

「黄粱巫峡事」はあわせて「夢オチの事」と意訳しても良いような事例といえるでしょう。

2012年7月9日月曜日

白日做梦~白昼に夢を見る

日本語の漢字:白日做夢

意 味:白昼に夢を見る。根本的に実現できないこと。

出 典:明·豫章醉月子《精选雅笑·送匾》

江淹得笔聪~江淹聰し筆を得て「後には江郎才尽」

「江淹得筆聡」は、中国南北朝時代の文学者・政治家である江淹(こうえん、444年 - 505年)が見た夢です。一般的に「江淹(江郎)才尽く」というエピソードで有名であり、このエピソードも夢の話。江淹得笔聪は「江淹は聡し筆を得る」夢という意味であり、夢で筆を失ったことによって、「才尽く」となった状態とは正反対ですが、江淹が夢で「筆を得て」出世し、文学者としても大成し、また夢で「筆を失って」出世が止まり、文学者としての素質も失った、という、いわば二本立ての夢に関する説話になっていると考えた方がよいようです。

江淹
江淹は、門閥重視の貴族社会であった六朝時代(222年-589年。三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳)において、寒門(身分が低い一族)の出身でありながら、その文才と時局を的確に見定める能力によって、高位に上りつめ生涯を終えたとされています。

江淹に関する詳細は立身出世や、文学上の位置などは、フリー百科事典・ウィキペディア「江淹」などに譲りますが、江淹には先程説明したように、2種類、3つの夢に関するエピソードがあります。2種類というのは、「筆を得て」と「筆を失って」になりますが、三つの夢というのは、そのうち「筆を失って」には異説があるというものです。

まず、1種類1つの夢しかない「筆を得て」からについて。これは、「夢筆生花」とも呼ばれる故事で、まさに「江淹得笔聪」ですが、ある日の夢の中で、江淹は神人に会い、5色の神の筆を与えられます。これ以降、江淹の文才が花開き、大文学者の道を歩み、名声を勝ち得ていくことになる、というものです。『蒙求』という書物にあるお話です。

また、「夢筆生花」ということで言えば、五代十国時代の王仁裕『开元天宝遗事·梦笔头生花』に、唐の大詩人・李白の故事として出典が見られます。また、「夢筆生花」は独特の景観で有名な黄山(安徽省/現在は世界遺産)に、筆のような、峰から花が生えたような景観についても、「黄山夢筆生花」などと言われます。この「黄山夢筆生花」は、李白が黄山に遊んだ際の伝説にも登場します。

もう一つが、「筆を失って」の方で、最も有名な「江淹才尽く」「江郎才尽」です。梁の鍾嶸の『詩品』によると「江淹が宣城太守を辞任し、首都建康への帰路の途中(起源500年ごろ)、夢に郭璞を名乗る美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」というものです。劉璠の『梁典』にも似た話が収録されています。

その異説として、唐の李延寿の『南史』では『詩品』と同じような話のほかに、「夢に西晋の詩人張協(張景陽)が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒り、錦を丘遅に与えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」というもう一つのお話があります。

この故事を受け、日本では、文人の文才が枯渇することを意味するようになりましたが、中国でもそうした意味があると同時に、中国では現在においても、江淹の「才尽」を学術的に事実関係をつまびらかにしようという研究が盛んに行われています。江淹が晩年に差し掛かって文学活動を減少させていったというのは事実のようですが、それに当時の政治情勢や、江淹の生活環境の変化などで説明しよう、という試みです。

そういう説はさておき、このような夢のエピソードが本当にあったことかどうかはともかく、広く長く伝えられているのは、このような話がなければ、当時の感覚(血統主義、貴族社会)や王朝がころころと変わっていく政治情勢として、「寒門」出身者である江淹が、文学者として、またそれとも付随した政治活動としての出世として、かくも鮮やかな成功はなかったのではないか、と考えられたことによるのかもしれません。

少なくとも、夢は、当時の政治・社会状況とも密接にかかわりをもって、そのエピソードが成立している、ということは言えると思います。

2012年7月8日日曜日

浮生若梦~一生は、夢の如し

日本語の漢字:浮生若夢

意 味:一生は、夢の如し。

出 典:唐·李白《春夜宴从弟桃花园序》

丁固生松贵~丁固、貴き松が生ず「18年後には大臣に」

丁固
「丁固生松貴」は、三国時代・呉の政治家である丁固(ていこ)が、腹の上に松の木が生える夢を見、松の字が「十八公」と分解できるから、18年後に公(大臣)になるだろうと予感、それが実現したという話。

正直に言うと、現在までに、日本でも、中国でもそれほど有名というわけではありません(少なくとも庄周虚化蝶や吕望兆飞熊ほどは有名ではない)が、『周公解夢』序文に掲載されている、「中国の夢」代表5作のうちの一つなのだから、それなりの後世への影響があったと考えられます。

丁固は、若くして父親を失い、母親と二人での貧しくつつましい生活であったが、母親には孝養を尽くし、一族の中の年下の身寄りのないものたちと生計を立て、辛苦を共にしたと言われています。子供の頃、当時の大学者・闞沢(かんたく)は「この児は必ず位人臣を極めるであろう」と予言したとも言います。

「腹の上に松の木が生える夢を見た」のは紀元250年ごろと逆算されます。その頃、呉の国では二宮の変と呼ばれる政治闘争の真っ最中で、大荒れに荒れていました。丁固の名が史書に現れてくるのもこの頃で、この政争の一方の主要メンバーとして名を連ねていました。ただし、その時の位は尚書であって、太子に守り仕える立場にあったものの、決して高位ではありませんでした。

それから順調に出生し、268年に司徒に昇進しました。この時代の司徒は行政部門の最高権力者であり、軍事部門や、監察・政策立案部門の長と並んで、人臣として最高位と言えます。この時、18年前の「腹の上に松の木が生える夢を見た」こと、その実現が話題になったということになります。

司徒昇進から5年後、273年に76歳で死去しますが、丁固は、呉の末期の有能な政治家として、後世からも高く評価される人物です。

良臣の貧しい出自からの立身出世と絡めた夢のお話であり、当時の人にも広く受け入れられたものだったのでしょうが、三国志の英雄・孫権が打ち立てた呉もその末期に差し掛かっており、輝きが失われていく中でのエピソードのため、現代においては地味ととらえられ、人気が今ひとつなのかもしれません。

2012年7月7日土曜日

魂牵梦萦~ものすごく思い悩んで夢の中にも出てくるほど

日本語の漢字:魂牽夢萦

意 味:ものすごく思い悩んで夢の中にも出てくるほど。

出 典:宋·刘过《醉太平》

吕望兆飞熊~呂望、熊の飛すを兆し「太公望は夢のお告げ」

「呂望兆飛熊」は、「飛熊入夢」とも言い、周の初代国王である武王の父・西伯昌(文王)が見た夢です。あの有名な、文王と太公望呂尚の邂逅譚となっています。日本ではあまり一般的ではありませんが、「飛熊」という言葉は中国では王が優秀な臣下を見つけるという故事で、有名な単語になっています。

ある時、西伯昌は虎から2本の翼が生え、その翼を生やした虎が飛び回り、自分の近くまで来るという夢を見ました。夢見に占わせると、それは「飛熊」というもので、いずれ賢人を幕僚に招くことができる吉兆とされました。

このことがあって、渭水での釣りの場面に至ります。一説では、呂尚の号が飛熊であったことから、西伯昌はさらに喜んでこれを迎え入れたと言います。史実において、呂尚の号が飛熊というのは確認できないようで、これはあくまでも『封神演義』上での出来事ともされていますが、「飛熊」の夢の話が中国において広く認知されていたことは間違いありません。

太公望呂尚
太公望呂尚は伝説的な人で、つかみどころがありませんが、周公旦と同じく、周王朝建国の大功臣であることは間違いありません。周公旦が殷王朝打倒までにあまり目立っていないのに対して、呂尚は文王・武王二代に渡っての軍師として活躍したことが伝えられています。

様々な物語に描かれている周公旦と呂尚は、あまりお互い相容れない性格だったとされていますが、それを端的に示しているエピソードを一つ紹介します。

周王朝成立後、周公旦とその子孫が魯に封じられたのに対して、呂尚は斉の国に封じられました。ある時、周公旦と呂尚が人材について論じた際、

周公旦「血縁主義で身内を優先すべきだ」

呂尚「そんな国は外との友好が薄く諸国から領土を削り取られるだろう。能力主義を取るべきだ」

周公旦「あなたのようなやり方では家臣に乗っ取られるだろう」

というやり取りがあったといいます(『呂氏春秋』「仲冬紀・長見」)。

後世、周公旦の魯は周辺諸国との軋轢で摩滅し衰退していきます。孔子の時代(周公旦の時代より約500年後)にはもはや中小国の一つに成り下がり、その後も歴史の表舞台に立つことはありませんでした。一方、呂尚の斉は、やはりそれから700年ほど経った後、大臣の田氏による簒奪を受け、呂尚の子孫は滅亡してしまいます。

上記のような両者の会話が、本当にあったことかどうかはわかりませんが、二人のそれぞれの出自や性格、その後の結果を見事に纏め上げたものとは言えると思います。

大雑把に言ってしまえば、周公旦は孔子が崇拝して以降、当然のことながら儒学・儒教の聖人になりますが、伝説的要素満載の太公望呂尚は道教のスター(神)として広く親しまれることになるのも偶然ではないかもしれません。

周公旦の名前を冠された『周公解夢』の性質が当然、必ずしも儒学・儒教的であるわけではなく、むしろ一般に流布された風習や習俗が多く取り入れられた(その意味では道教的)ものであることは間違いありませんが、その性質を探る上で、名前を冠された周公旦の人となりを、太公望呂尚との比較で見ると、より深く理解できそうです。

2012年7月6日金曜日

夜长梦多~夜が長いと夢を多く見る

日本語の漢字:夜長夢多

意 味:夜が長い(寝る時間が多い)と夢を多く見る。転じて、時間を引き延ばしていると不利な状況が生じる。

出 典:清·吕留良《家训真迹》

庄周虚化蝶~荘周、幼蝶と虚むれ「胡蝶の夢」

中国の戦国時代の宋国の人で、道家のその一人である荘子(紀元前369年 - 紀元前286年<推定>、荘周(姓=荘、名=周))の説話。夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という内容です。

この説話の内容をより深く理解するためには荘子の考え方全体の中で位置づけなければなりませんが、簡単に言ってしまえば、「夢が現実か、現実が夢なのか? しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」という境地を指し示しています。

日本でも「胡蝶の夢」という説話として有名な話であり、全文と訳を掲載しておきます(フリー百科事典・ウィキペディア「胡蝶の夢」)。

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原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
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荘周(荘子)
荘周は、無為自然、一切斉同を説きます。徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に入り浸るとも言われていますが、この「胡蝶の夢」でも分かるように、必ずしも世俗を離れようとしているのではなく、煩雑な人為に満ちた世俗をいかに生きるか、考えるかの一つの方法論として提示していると考えた方が、荘子本来の考えを示しているように思います。

それは逆説的でもありますが、人為を極端に排除しつつも、荘周の著作や生き方から考えると、人為の極みである儒学・儒教、さらにその開祖である孔子を必ずしも批判していないことからでも明らかです。荘周はむしろ儒家出身者ではないかという説もあるぐらいですが、十分ありえるべきことで、いわばアンチテーゼとして無為を説くという姿勢があったと考えたほうが良いかもしれません。

それは、荘周の思想が、先行したとされる老子の考え方と集合して、老荘思想(道家)としてまとまり、魏晋南北朝時代(184年-589年)に一世を風靡する清談に受け継がれていくという歴史の流れにも沿うものと考えられます。逆にこの魏晋南北朝時代の貴族社会から、隋唐時代(581年-907年)に確立した、儒学・儒教一辺倒となる、いかにも中国らしい科挙制度による律令・官僚社会への変遷とも呼応しているとも言えます。

2012年7月5日木曜日

梦寐以求~夢の中でも追い求める

日本語の漢字:夢寐以求

意 味:夢の中でも追い求める。

出 典:《诗经·周南·关雎》

『周公解夢』扉文について

周公解夢』は、詞曰の扉文に始まり、解夢(夢の解釈)を項目別に分けた全27篇からなります。

まず扉文を見てみましょう。

  诗曰:
  夜有纷纷梦,神魂预吉凶, 庄周虚化蝶,吕望兆飞熊。
  丁固生松贵,江淹得笔聪,黄粱巫峡事, 非此莫能穷。


詞でいうには、夜に見る夢とは、入り乱れてまとまりのないほど様々なものが有るものだ。それは、神魂(または精神)が、その夢を見た者に吉凶の判断をさせるように預けたものである。

として、以下著名な人が見た夢の例を下記のように挙げています。

庄周虚化蝶 ⇒ 荘周、幼蝶と虚むれ
吕望兆飞熊 ⇒ 呂望、熊の飛すを兆し
丁固生松贵 ⇒ 丁固、貴き松が生ず
江淹得笔聪 ⇒ 江淹聰し筆を得て
黄粱巫峡事 ⇒ 黄粱、巫峽の事

その上で、「紛紛たる夢はこれだけにきわまるものではない。」で締められています。

『周公解夢』の成立過程は定かではありませんが、「古から中国に伝わる夢判断、夢占いの集大成」であることは間違いなく、この全文とそこから派生した様々な解釈が誕生し、現在までに体系化されています。この全文はだから重要性がたかくなりますが、その中で上げられた五つの夢の実例は、『周公解夢』の性質を示す重要な鍵を握っていることが考えられます。

少なくとも、「古から中国に伝わる夢判断、夢占い」において、代表とされる五つの夢であることは間違いなく、まずはその五つの実例を見ていきましょう。

2012年7月4日水曜日

『周公解夢』の全文について

『周公解夢』そのものは、決して長文ではありません。今、その全文を示してみます。

  诗曰:
  夜有纷纷梦,神魂预吉凶, 庄周虚化蝶,吕望兆飞熊。
  丁固生松贵,江淹得笔聪,黄粱巫峡事, 非此莫能穷。

一、天地日月 星辰
  天门开贵人荐引天光灼身疾病除 天晴雨散百忧去天明妇有生贵子
  天门未至有兵荒 仰面向天大富贵乘龙上天主大贵上天求妻儿女贵
  上天取物位王侯 飞上天富贵大吉癸天上屋得高官 天裂有分主国忧
  天皇明主公卿至天欲晓益寿命吉 渡天河主有所吉天地合所求皆得
  天公使有大吉祥 日月初出家道昌日月照身得重位 日月落忧没父母
  日月昏暗孕妇吉日月欲出有官职 日月合会妻有子日月衔山奴欺主
  负抱日月贵王侯 吞日月当生贵子礼拜日月大吉昌 日光入屋官位至
  日初出无云大吉日出有光有好事 云开日出凶事散日入怀贵子月女
  拜星月烧香大吉 云忽遮日有阴私星入怀主生贵子 星落有病及官事
  星列行主添奴婢持执星宿大富贵 流星不落主移居巡天摩星位公卿
  云起四方交易吉 五色云主大吉昌云赤白吉青黑凶见浮云作事不成
  云雾遮事大吉利 黑云压地时气病霜雪降主事不成 雪下及时大吉利
  雪落身上万事成雪不沾身主孝服 雪落家庭主丧事阴雨晦时主囚事
  行路逢雨有酒食 雷霆作声官位至雷声恐怕私居吉 雷从地震主志遂
  身被霹雳主富贵电光照身有吉庆 赤虹见吉黑虹凶霞满天百事欢悦
  狂风大雨人死亡 风吹人衣主疾病忽大风国有号令 风如吼主远信至

二、地理山石 树木
  地动主迁官位吉地裂主疾病大凶 修平田地大吉昌地高下不平主病
  卧于石上主大吉 地中黑气上主凶运石入家主富贵 石上得利禄大吉
  盘石安稳无忧疑登岩抱石官职迁 手弄小石生贵子身入土中百事吉
  自身取土被耻辱 升山落地主失位居住高山有喜事 山行得财有福禄
  抱物上山孕贵子山中农稼衣食丰 枯木再发子孙兴堂上地陷主安忧
  园林茂盛大吉利 树木枯死宅不安林中坐卧病欲痊 树木凋零主人凶
  林中树生添贵子种树木者大吉昌 登大树名利显扬上树忽折有死伤
  与人分花主分散 枯木开花兴子孙大树落叶屋中吉 立树下贵人庇阴
  树生堂上父母忧大木忽折主凶恶 担水来家得财喜砍伐大树多得财
  草木茂盛家道兴 门中生果树有子松生屋上位三公 家中生松事转丰
  家中生柏大吉利庭前竹木喜重重 枫生屋上百事遂兰生庭前主添孙
  果林中行主得财 入果园中大发财桑生井上主有忧 果树多熟子孙安
  折笋到家女有子见笋者主添子孙 扫地除粪家欲破粪土堆者钱财聚

三、身体 面目齿发
  自身白衣人所谋 梳头洗面百忧去身拜尊长大吉昌 身上汗出主凶恶
  身病虫出得重职身上虫行病患安 绳索系身长命吉枷索临身病欲来
  身或肥瘦皆为凶 面对官者主大吉露体无衣吉大利 妇人披头有私情
  头白主长命大吉头生两角有争竞 头秃发落皆凶事面生疮黑主子凶
  头须自落忧子孙 头须再生主长命沐浴迁官疾病除 洗手洗足旧患除
  照镜明吉暗者凶破镜照人主分散 手足浓血出大吉屎尿污人大吉亨
  露头披发阴人谋 披头盖面官讼至剪剃头发家内凶 眉与发齐禄位至
  齿自落者父母凶齿落更生子孙兴

四、冠带 衣服鞋袜
  戴冠登车官欲迁 自戴帽头巾帽吉簪冠登台职位迁 贵人与之衣冠吉
  新换衣冠禄位至烧毁官帽欲更官 失去官帽主退职拾得冠带禄位至
  与人公服主得职 人与公服加官职女着冠带主生子 洗笏染服新官来
  执笏见贵人大吉笏破忧凶主不祥 与人笏授主官迁腰带者主官至吉
  文书用印有名声 带印主妻生贵子着新袍主添妻妾 着锦绣衣子孙荣
  洗染衣服皆大吉披蓑衣主大恩至 被油污衣大恩泽衣服忽破妻外心
  新衣攒来百事凶 与人衣服主患至裁衣着孝衣皆吉 衣带自解百事吉
  着黄衣皂衣皆吉着白衣主有人请 着青衣神有助力着蓝绣衣妻大利
  从人着紫主情弊 众人着青家人散众人着白主官事 众人着红大吉利
  妻着夫衣生贵子女人着衫平无事 与人共衣妾私情失却衣服妻难产
  好被自盖得富贵 人着己履妻有私得靴鞋主奴婢吉 的履主奴婢逃走
  脱靴束带主有凶鞋破子孙妻妾病 着麻鞋百事和合新授官爵主贵子
  乞得鞋履人助力 木履脱时已出危

五、刀剑旌节 钟鼓
  君主队杖有异吉旌旗受宠大吉利 抱旌节主贵人扶旌旗引入山主凶
  造旌盖主大吉利 羽益盖身主富贵旌旗迎接大富贵 旗幡竞出主疾病
  手持旌节有恩偿自盖覆身大吉利 见做新旗大吉利与人分金主分散
  拔刀出行大吉利 得人刀主行人至人与三刀作刺史 与人相砍大吉庆
  被刀出血得酒食持刀刺人主失利 刀斧自伤大吉利得人刀斧禄位至
  刀落水中妻妾亡 失落刀剑主破财带刀剑行有财利 磨刀剑锋快大古
  与人刀剑皆主凶剑在床头大吉利 女人带刀大吉庆女人拔刀主有子
  剪刀主分财之事 剪刀剪物主得财剪刀折股妻妾凶 甲胄披身护吉利
  枪槊主官位吉利见军兵败主有凶 钟磐有声远人来钟鼓大鸣福禄至
  打鼓有声远有来 见鼓住声欢乐吉见鼓不鸣凶必至 看放烟火有忧散

六、帝王文武 呼召
  帝王宣召有惊喜后妃呼召饮有疾 太子召大喜吉利天子赐坐有财吉
  王侯并坐大吉利 来见贵人不得凶与圣贤说诣大吉 使命入门大吉利
  白衣召作使死亡拜尊长者有吉庆 先祖考言求食吉人云大好者即凶
  人云死者得长命 人在外呼之主凶我欲共汝去大凶 人云不用汝大吉
  与恶人言有口舌被杀害吉伏藏凶 身生羽翼飞大吉身逃走得脱病去
  与人交易主有疾贫穷共居主大吉 合伴同行凶事至一切贵人皆吉利

七、宫室 屋宇仓库
  入帝王官行大吉 拜朝廷者主富贵入王侯府主大吉 行道宫见仙主吉
  坐官府中主大吉神庙广大事事吉 上楼阁坛俱大吉上高堂大富贵至
  高楼饮酒富贵至 家起高楼安稳事上城为人所拽吉上城被执官职显
  城郭广大财喜多 城中行凶出门吉连城青色有喜吉 登赤城郭主大吉
  盖城上屋大吉利上屋主富出园吉 上屋破坏家道凶堂上有棺身安乐
  正堂倒陷家主凶 覆盖屋宇长命吉屋宅更新主大吉 风吹屋动主迁移
  迁入他人新宅吉居田宅主妻喜事 搬移破屋主美妻人或典房主官让
  家道贫穷大吉利 洒扫宅舍远人来典卖田舍主失位 屋宅无人主死亡
  屋下穿身有暗昧逾墙度宅险事去 与人争屋主大凶与妇人争屋主吉
  房梁忽折主大凶 院宅坑下主死亡妻男墙下官位至 墙上掘土主更改
  军人入宅主大吉死央瓦落妇争斗 屋中生马男信至尾中生草家欲空
  屋上生松柏益寿 修理田舍有大喜入寺院中生贵子 寺舍看经病人痊
  迁移尼寺主病至超盖仓库福禄至 仓库崩坏百事凶入仓库中大吉昌

八、门户 井灶橱厕
  门户高大主富贵 新开门户大富贵门户忽开主大吉 门户大开大吉利
  门更新主生贵子门自开妻有私情 门户裂开主大吉门户破碎有凶事
  城门大开主口舌 宫城塞者口舌至门户闭塞事不能 门户败坏主大凶
  门扇自折奴仆走门户内无人大凶 修移门户大吉利石为门户主寿命
  门前生洲作刺史 门前坑沟事不成天火烧门主凶事 屋开小门主私情
  穿并见水远信至井自损坏家大败 井中沸溢主得财井枯涸者家财散
  井中照身禄位至 身坠井中疾病凶屋在井中主见病 取井水清吉浑凶
  井中伏泥出主财井中欲于家欲败 井中有鱼身主贵窥井有声口舌生
  伏藏井中刑狱事 醉落井中官事至家住井中长子匈 人云出井喜事至
  掏井造井主大贵器皿落井有急事 灶下水流得横财灶下燃火有声名
  灶釜破败有死亡 灶下炊者家破败灶下器鸣主口舌 屋有二灶事不成
  修造炊灶大吉利在官厨中得财禄 自炊日中妻妾之掏厕者主得横财
  上厕在尿屎中吉 厕中屎溢大吉利粪中坐者主大凶 粪土堆积主得财

九、金银珠玉 绢帛
  金银宝者主富贵金银珠玉大吉利 金银杯皿有贵孕金银作铛器大吉
  玉积如山大富贵 得金玉环生贵子铜裆主有口舌至 珠玉满怀主大凶
  得玉碗器物皆吉见铁器物主得财 铅与锡者主得财得铜物主大富贵
  镶铅器物疾病去 还人钱物疾病去拾得钱物皆大吉 钱春夏吉秋冬凶
  家中分财主离散赠彩帛者主有权 贵人赐绫锦官至人赐绢帛大吉昌
  与人丝帛大凶恶 得他人麻布衣凶得布帛远亲来至 与人衣服官事至
  寻丝绢主进入口纺绩者主寿命长 经络者主被人辱箱器生口舌之事

十、镜环 钗钏梳蓖
  镜明者吉暗者凶 拾得镜者招好妻将镜自照远信至 镜照他人妻妾凶
  得他人镜有贵子他人弄己镜妻凶 镜破主夫妇离别金钗动有远行事
  金钿成双增爱妾 钗钏相敲妻别凶金钗耀主生贵子 花钗妻妾有奸妄
  银钗夫妻主相殴花压妻妾生外心 人与梳蓖得美妾牙木梳旧事尽去
  见蓖子贵子提携 得蓖子者美女至刷牙者病患不生 行胭脂粉主生女
  见脂粉主大财利得粉扑妻生桥女 手帕者主口舌事得外线者百事就

十一、床帐 毡祷匙筋
  床帐改主官迁移 舒展床帐大富贵新安床帐远人来床帐出门者妻亡
  床帐改换移居吉 床上有蚁主不祥床帐破损妻欲亡 开帐幔主有酒食
  帐幔坏者妻子病床脚新换奴仆凶 上床卧者大凶恶血在床妻妾有奸
  洗床收则主大吉 荐席入吉出则凶破席者主失官位 换席入吉出则凶
  席箪者主有力助毡褥铺陈万事稳 毁帘幔者妻有奸新帘者主得好妻
  铺席合坐得官位 好被自盖主大吉见好枕有贵人扶 见手帕主有口舌
  手巾缚布病患至毛扇忽持官事吉 鼎鼐者主得大财釜溢者主得大财
  玉石器主有人助 铜铛者生口舌至锅铁破主丧事来 裆盏被主有恶事
  瓷碗者主酒食至瓷碟者主口舌至 匙主益妻妾子孙筋主益田宅奴仆
  盆主益仓库大吉 掇盆脱底主财散火盆瓮器大富贵 洗面盆着美妾至
  大小盆者主团圆得盒子者所求得 桶盛水者主大吉桶无水者主大凶
  人送大桶主得利 桌架于宅事不成锯主有断决之事 碾衣石移居大吉
  锤钻者主侵害事锤欲举动有人扶 凿主被人驱使吉熨斗盛火好事成
  熏笼者益增产业 人与秤者主权位绳索主长命大吉 绳索断者主凶恶
  人与凿者得抬金人送帚者主得位

十二、船车 游行物价
  船飞行主大富贵 船浅在岸是非厄乘船渡江河得官船中有水主得财
  乘船看日月得职 乘船过日月主宫乘船饮酒远客至 与人同船主移居
  乘船风帆大吉利乘船见航主安稳 乘船桥下过大吉病人乘船必主死
  助人行船官位至 身卧船中主有凶执火入船主大吉 家中乘船主没财
  乘船看花酒食至船车破碎主不详 车轮破夫妻相别车轮折倒主破败
  车载不起厄事去 驾车游行禄位至车行主百事顺利 车不行所求不遂
  车入门主有凶事病人上车主大凶 丧车过者主灾散行车白马主大吉
  四马驾车吉反凶 以羊驾车事不常备马者生远行事 远行出入命通达

十三、道路桥梁 集市
  见四通路名利遂道中得财主通达 道泥荆棘事大成大道崩馅主失财
  修桥梁者万事和 见流桥主有官事桥上坐立禄位至 见桥坏主有官事
  携手上桥妻有孕桥上呼唤讼得理 新造桥者大和合桥断者主有口舌
  桥柱折者子孙凶 桥路上住车皆凶夫妇入市主置产 见市中无人主凶

十四、夫妻产孕 交欢
  夫妇宴会主相别夫妇相骂主疾病 夫妻分钗主离别夫妻相打欲和会
  同妇人行主失财 抱妇人主有喜事与妇人交有邪崇 与妇人共坐大吉
  交接男子主失财妻着锦衣生贵子 妻有争主外私情见妇人阴主口舌
  妇人赤身主大吉 男子裸体命通达兄弟分别口舌临 抱小儿女主口舌
  小儿死者主口舌新生男女主大吉 见嫁聚及孝主凶男子化为尼姑凶

十五、饮食 酒肉瓜果
  人请饮酒主长命 与人饮酒有口舌与人吃会富贵至 宴会客人家欲破
  饮酒者主哭泣事饮酒至醉主疾病 贵人赐宴主疾病与贵人对饮大吉
  人请吃酥酪主喜 与人吃乳尊亲至与人吃蜜大吉利 呕吐者病人出痊
  食水者主很大利死人食者主疾病 食羊肉于堂上吉食大肉主有争讼
  食猪肉主疾病至 刀割猪肉主生病食生肉凶熟肉吉 食自死肉主别离
  食鹅肉主妾疾病食鸡鸭等肉皆吉 食馒头主口舌散见馒头未食主气
  食烂瓜主生疾病 食饼食饭心不遂食瓜子主生贵子 食柿食柑主疾病
  食葡萄离而复合食枣者主生贵子 食桑甚主生贵子食栗者主有分别
  食梨者主失财帛 食一初果者凶至食茄者主妻有子 食葱韭主有争斗
  食薤者有重丧至食蒜者有灾害事 食菜黄主凶事至食油盐酱酸豉吉

十六、冢墓 馆郭迎送
  冢墓高者大吉利 新冢棺郭主忧除冢墓上有云气吉 冢基门开百事吉
  冢墓上明吉暗凶冢墓生树吉折凶 冢墓上开花大古墓中棺自出大吉
  将棺入宅禄位至 死人出棺外客至开棺与死人言凶 棺敛死人主得财
  升棺水上大得财空野无人主远行

十七、文书 笔墨兵器
  各色经书大富贵 五色纸者大益财吞五色纸诗书进 几上有书禄位至
  读书文写字大吉有人教书大富贵 见读书者主聪明观人读书生贵子
  得历日者中黄甲封书信者主通达手弄笔砚主远信 人与墨者文章进
  人将已笔文章退他人起笔主财进 君王队伍有异名得大赦者宅舍凶
  就人卜易主疾病 受人纸钱主大吉公座移动主迁官 受职上官财物来
  佩印公爵主大吉佩印执笏主移居 佩印信者名准出印绶改迁生贵子
  棋子主添丁进口 打球者主得虚名兵马入城福禄至 率众破贼所求得
  见军兵败主凶事已射人必主远行 人射已有行人至持弓夭者主大吉
  挽弓弦断主凶恶 人送弓弩得人力弩弦难上兄弟散 弓弩相斗生争论
  戈铖有光禄们至披甲杖剑得高官

十八、哀乐 病死歌唱
  与人哭泣有庆贺 放声大哭欢乐生身着孝服官禄至远人来悲泣主凶
  床上哭泣主大凶 见歌舞者口舌至家中欢喜百事吉 怀中琵琶行人力
  他人与笛有名声与人扣板有口舌 堂上歌乐主丧事吹笙者主有更欢
  吹笛打鼓有吉庆 他人作乐讼有理露齿哭者有争讼 病卧为人扶加官
  病重者主有凶事自疾病者主有喜 病人歌唱主大凶病人哭笑疾病除
  病人起者必定起 病人装车必死亡死人哭泣有口舌 死人立者主大凶
  死人哭坏者得财死人复活主有信 见人死自死皆吉子死者主添喜事
  见死亡尊长大吉 门吊他人主生子

十九、佛道僧尼 鬼神
  诸佛菩萨大吉利法师登座有疾病 老君真人皆主吉画神佛者得人钦
  看神佛者妻有子 佛共人言有福助入神庙神动大吉 道施盖者大吉利
  憎师教人念经吉道士女冠言语吉 和尚尼姑看以闷被鬼神打大不祥
  堂上神佛大吉利 神佛不成行大凶烧香礼拜皆大吉 迎神赛社有外财
  仙圣到家福禄至与鬼斗者主延寿 祭祀神道大吉利身受戒行者子孝
  与神女通得贵子 与尼姑交主失财

二十、杀害斗伤 打骂
  被人打害者大吉杀死他人人富贵 持刀自杀者大吉杀人血污衣得财
  被刀刺尖出快利 持刀相杀见血吉刀伤出血主酒食 砍刺见血主大吉
  炙身见血流大吉刀斧自伤主大吉 持刀砍人自失力被妻妾打者主凶
  被人打者主得力 女人相打主病至兄弟相打大吉利 家中人斗主分散
  看见杀人主大吉被人签刺大吉昌 手指折者主子病向人叩头百事吉
  与人相骂者主吉 被骂佯颠大贵至被人凌辱主得财 杀猪者大吉利
  杀驴骡马有酒食杀龟者主有丧事 杀鸟雀妻妾灾难杀鸡鹅鸭主大吉

二十一、扑禁 刑罚狱具
  牢狱崩坏有赦吉 坐狱中必有恩赦入狱受灾主荣贵狱中死者官事散
  使人入狱得财吉入牢狱主有大贵 盗曲自入狱大凶牢狱臭污百事吉
  罪人走脱疾病去 赶贼行见者大吉枷锁临身疾病至 枷锁折损口舌散
  枷锁入宅主大凶绳索系身大吉利 身被罗网主官事被罗网罩主酒食
  被人疾罚禄位至 被人作贱者大吉被官打身主孝服 被人绑主疾病至
  自以杖决耻辱生枷锁恐怖主分散 邀人入官主酒食入官词议主大吉
  吏引入司主大吉 为吏所录有急事贵人走马官事明 拷讯杖责主大贵

二十二、田园五谷 耕种
  田中生草主得财种田宽大有禄位 自种田禾主出行见种田者禄位至
  教人耕种远行至 使人种田地大吉买人田宅主进职 身在禾中大吉利
  破败田地主大吉割收田禾家已安 屋上生禾官位吉见禾丰熟富贵长
  见麦稻主得大财 粳糯米者有财吉五谷茂盛主得财 谷穗齐秀大吉利
  米谷堆吉散主凶大小麦主妻私心 大豆苗叶子孙凶米麦相排大吉利
  坐卧米麦主大吉 手中把谷主福禄得米谷者主大吉 种菜主长命大吉
  得禾忽失主得秩粟米必有献物至 荞麦面饼官事至麸糠相交家欲检
  酒曲必主枉曲事 葫芦者主恶事连麻丛身者主病至 麻生如林大吉利

二十三、水火盗贼 灯烛
  水上行者主大吉水上立者主凶事 水流洋洋有新婚水上火出主大吉
  自在水中大吉利 自落水中不出凶饮水不休得大财 流水绕身有狱讼
  大水澄清大吉祥人家有水见子亡 江海涨漫大吉昌河水砂石益文章
  火烧日月大人助 火烧河水长命吉火烧山野大显达 火烧自是主兴旺
  火焰炎炎主发财火从地生疾病至 执火乘行官位至大火烧天主国安
  身在火中贵人扶 火烟黑色主疾病把火行路不通达 把火烧井主病至
  赶贼入市不出凶强贼入宅主家破 与贼同行大吉利己身做喊所求得

二十四、污垢 沐浴凌辱
  屎尿污身主得财 大使满地主富贵患厕中得官禄位 落厕出吉不出凶
  厕屋上卧主得财厕中干者主家破 架厕屋主有财喜挑粪回家大吉利
  在泥中所求不成 失大小便主失财泥污衣裳主产凶 泥污衫衣主身辱
  男女沐浴上床凶沐浴尘土疾病安 洗头迁居疾病除被辱骂惹人词讼

二十五、龙蛇 禽兽等类
  乘龙入水有贵位 龙眠水中求事通龙当门者大吉昌 龙死亡主失贵位
  乘龙上山所求遂龙入井中官被辱 龙飞有官位大贵乘龙上市主贵位
  龙蛇入门主得财 龙蛇入灶有官至蛇化龙行贵人助 妇人见龙生贵子
  龙蛇杀人主大凶蛇咬人主得大财 蛇入怀中生贵子蛇行水内主迁荣
  蛇随人去妻外心 蛇入谷道主口舌蛇绕身者生贵子 蛇多者主阴司事
  蛇赤黑主口舌吉蛇黄白主有官事 凤凰主有贵人助凤集拳上母病到
  孔雀者主大吉利 鹤上天主小口灾鹤鸣着禄位大显 鹤入怀中生贵子
  鹤驾车主征伐事放鹤者主得财吉 孔雀飞舞有文章 鹦鹉妇人主口舌
  鸳鸯散去夫妻凶野鸭入宅主有凶 驾鹞者主禄位至鸠鸽者妇人有喜
  燕飞入怀妻生子燕子至有远客来 空中鸟鸣主妻亡飞鸟人怀皆主吉
  捉住飞鸟远信至 雀相争斗有官事鸦雀相噪主酒食 鹅鸭同游添好妾
  鸟走蛇来人引荐洗鸡得官鸣口舌鸡抱卵主有大喜 鸡在树上主得财
  麒麟者名震天下白象江猪官位至 狮子叫吼场名震猛虎大吼主得官
  骑虎行者恶事无 虎入宅中官职重虎狼不动见官吉 豺狼恶狗有盗贼
  狼啖脚者主不行骆驼豹豸得重印 熊罢主身生贵子群免上天得贵位
  獐鹿在家益官禄 浩鬼在园百忧去猫捕鼠者主得财 白鼠引路人提携
  鼠咬人衣所求得鼠大走主有善事 山猴有争讼事端白猿主有禄位得

二十六、牛马 猪羊六畜
  黄牛来家大富贵 水牛主先祖索食牛上同坡大吉昌牵牛上山主富贵
  牛角有血主三公牛触人心事不成 牛出门好事立至水牛来家主丧事
  牛主犊所求皆得 骑牛入城有喜临牵牛羊来家欢乐 马舞庭前凶事散
  马行千里大喜至乘马快喜饨主凶 走马来往文书事马入室主奸情事
  乌蛇践物失禄位 披洗夜马皆喜事群马奔统百凶解罪人走马厄事会
  乘白马者主疾病 被马咬有禄位至骑驴骡主得财吉 杀猪吉猪自死凶
  猪豚变人官事至猪羊搔痒有口舌 羊做豚行行人至骑羊上街主得财
  子母羊益命大吉 犬吠人鬼来求食犬咬主人失财凶 屋中生马主大吉

二十七、龟鳖鱼虾 昆虫
  龟入井宅富贵至龟蛇相同主生财 见龟者主女人贵捉龟者主丧事至
  见鳖者主有得财 鱼飞水上百事散井内有鱼迁官至 张网捕鱼大吉利
  人捕鱼作食皆吉抢鱼拾鱼主小疾 水中钓鱼大吉利林中鱼猪事无成
  群鱼游水主有财 鲤鱼妻有孕大吉大鱼扬动主声名 小鱼生子大吉利
  干鱼下水命复通虾变鱼主失财物 身坐鱼虫病患除螃蟹主百病消散
  蛤蟆鸣走有口舌 水蛭主女人失财螺狮生在外不利 蛤蜊主老来生子
  飞娥入灯他人败蚕飞不茧主小吉 峰蜈交戏事不成峰螫人脚有财喜
  恙螂作堆主失财 蜻蜓对飞美人来促织声繁有小吉 蝙蝠群飞明事良
  蝇污人衣必有谗蝼蛄主有不明事

2012年7月3日火曜日

『周公解夢』と周公旦について

『周公解夢』(しゅうこうかいむ)の著者とされる周公旦とは、中国周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の建国の大功臣であり、初代・武王の同母弟です。姓は姫、諱(本名)は旦です。

周公旦は、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』『儀礼』を著したとされますが、周公旦の影響が全くないと見るのは難しいものの、後世の作であることは常識です。『周公解夢』についても周公旦による著作とするには少し無理があるようです。

『周礼』には古代の夢解きに関する官制が詳しく記されており、周公旦と夢がここに繋がっていると言えますが、これだけでは、『周公解夢』が周公旦の名を冠されるに至った理由としては少し弱いと言えます。

西伯昌 周文王
周公旦は、周の文王の第四子で、周の武王の同母弟です。周王朝は、前代の殷(商)を倒して建国された王朝であり、武王の時代に成立しましたが、その父・西伯昌もさかのぼって王号が授けられました。それが文王です。

周公旦の殷打倒までの細かい略歴は伝わっていません。兄・武王を助けて、殷との戦いに注力した、程度のものです。しかし、周王朝成立後、まもなく武王は病に倒れ、二代目として立てられた武王の子で幼少の成王を摂政としてサポートしたことが伝わっています。

王朝成立まもなくに起きた大内乱を平定し、国の安定に努めたとされます。成王の成長後は政権を成王に返しています。そのため、摂政ではなく、実際には一度王位を継いでいるのではないかとも考えられています。副都として、今後中国の各王朝にも度々都として位置づけられる、今の洛陽を築いたことでも知られています。成王とその後の康王の時代による、周王朝の最盛期「成康の治」の路線を引きました。

王朝創業期の混乱を見事に乗り越え、王朝の礎を築いたのは間違いありません。称号である「周公」がどこから来ているのか定説はありません(周発祥の岐山に封じられたため、とも言われています)が、国号と同じ称号を賜っている(周発祥の地を封じられる)ことはいかにその功が大きいかを示すものと言えそうです。

また、魯の国の実質的な開祖としても知られています。自身は魯には赴任せず中央にとどまって政権中枢を掌握し、嫡子の伯禽を派遣して統治させたともされ、そのため魯公(魯の君主)の初代は伯禽ともされますが、魯が周公旦とも関係が深いことは間違いありません。

孔子
そして、この魯には、周公旦の時代から500年後あまりで、孔子が生まれます。儒学・儒教の開祖です。孔子が理想としたものこそ、周公旦の時代、周公旦の礼、周公旦の政治、周公旦そのものです。

孔子は、周公旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なくなったので(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたと言います。

このことも、周公旦と「夢」を密接に絡みつけるきっかけとなったようで、明らかに後世の作と思われる夢解きの著作が周公旦に仮託された要因の一つとなっているようです。

『周公解夢』は周公旦の著作とは考えづらいものです。しかし、ではなぜこの夢判断・夢占いの著作のタイトルに周公旦の名が冠せられたのか、それは『周公解夢』に触れる際の重要な問題提起となります。

この問題提起に簡潔に答えるすべは今のところありませんが、それを求め続けていくことは、『周公解夢』に悪い意味で飲み込まれない、のめり込まないためにも必要な姿勢です。実際の周公旦がどのような人だったのか、後世からどのように評価され、位置づけられたか、こうしたことを考えていくことがその第一歩だと思います。

2012年7月2日月曜日

『周公解夢』について

『周公解夢』(しゅうこうかいむ)とは、周公旦の夢解き、つまり周公旦による夢判断、夢占いという意味です。中国甘粛省北西部の敦煌から発掘された文章を指します。

周公旦とは、中国周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の建国の大功臣であり、初代・武王の同母弟です。姓は姫、諱(本名)は旦。

本サイトでは、『周公解夢』とその夢判断・夢占いを取り扱っていきます。順次情報を公開してまいりますので、よろしくお願い申し上げます。