夢エピ。今回は、「一场春梦」。
「一場春夢」。人生は夢、幻のようなもの、という意味。幻滅、というニュアンスがあります。夢に関わるエピソードとしてはよくあるパターンではありますが、この故事が蘇東坡に由来するものなので、紹介します。
蘇軾(そしょく、1037年-1101年)は北宋の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれます。唐宋八大家の一人で、この時代を代表する文豪であり、中国の数千年という長い歴史の中でも、もしかすると10本の指に入る芸術家かもしれません。
この夢の故事自体、ひどい境遇に遭って、晩年に僻地に左遷され、しかも左遷先まで非常に貧しいなりで移動することになった蘇東坡。その姿を見た、蘇東坡の栄光と没落を知っている老婆が、「昔はあれだけの栄華を誇っていたのに、(今の凋落振りを見ると)まるで一つの春の夢のようだ」と言ったことにちなむものです。
蘇東坡は今で言う四川省の出身。20歳の時に科挙に合格して進士となり、規定どおりに地方官を歴任、宋の英宗(在位:1063年-1067年)の時代に中央入りを果たします。ちなみに、英宗も夢にまつわる出生譚があります。
次の神宗(1067年-1085年)の時代に入って、王安石の新法に反対する立場を取ります。この頃、宋は外圧に苦しみ、軍事費の増大などに伴う極度の財政赤字に悩まれます。これを解消するために行われた一連の改革を新法と言い、王安石はその旗振り役であって、神宗から絶大な信頼を勝ち得、改革を推し進めます。
王安石の新法は一部では効果を挙げましたが、全体として極めて急進的なものだったので、その分反発も大きく、新法に反対する旧法派が徐々に勢力をつけていくなど、新法・旧法の争いと呼ばれる政争に発展します。王安石の新法が進むにしたがい、蘇東坡は旧法派と見なされ、地方に左遷されます。
神宗が死去し、哲宗(1085-1100)が即位すると、旧法派が復権します。蘇東坡も中央に復帰しますが、蘇東坡は新法の全てが悪いのではなく、一部は有効な政策もあるので、それは存続させるべき、との意見を持っていたので、旧法派の内部でも孤立します。
しばらくして再び新法派が勢力を持つようになると、蘇東坡は旧法派のひとりとして、やはり左遷されます。一度広東省に飛ばされ、その後海南島にまで流されます。もはや左遷ではなく追放・流罪と言えます。この時の海南島への旅路に出てくるのが、「一場春夢」です。蘇東坡62歳のことです。
哲宗が死去し、芸術家皇帝・徽宗(1100-1125)が即位すると、新旧両党の融和が図られ、蘇東坡も許されて中央に戻りますが、その帰路、今の江蘇省あたりで客死します。66歳でした。
蘇東坡ほど、新法・旧法の争いに翻弄された政治家も珍しく、新法・旧法の争いが北宋滅亡の遠因とされていることは、蘇東坡の波乱の政治人生を見るとよく納得できます。一方で、詩人として、また書道家としては、生前より極めて高く評価された人でした。蘇東坡の栄光はむしろ芸術の方面で手に入れたものと言えそうです。それもひっくるめて、「一場春夢」なのでしょう。
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