周王室と同族の君主によって治められた、鄭という国が紀元前806年-紀元前375年まで、つまり西周時代から春秋戦国時代まで存在していました。現在の河南省のあたりとなります。河南省の省都は今でも「鄭州」です。
その第10代の君主に文公(ぶんこう、紀元前?年-紀元前628年)がおり、その愛妾に燕姞という女性がいました。ある日、燕姞は不思議な夢を見ました。夢の中に、一人の天使が現れ、彼女に美しく香り豊かな蘭の花を贈ったのです。天使は、「これはあなたの息子に与えるものです」と言ったところ、燕姞は夢から覚めました。
夢から覚めた後、燕姞は身体に蘭の花の香りが染み込んでいく感覚を覚えました。しばらくして、彼女は懐妊します。その後、男の子を無事に出産、夢の内容にちなんで、「蘭」と名づけられました。いろいろな数奇な運命を経て、「蘭」は父・文公の後をついで、次代の鄭の国の君主になります。
燕姞が蘭を生んだのは文公24年(紀元前649年)と言われています。それから12年後、つまり蘭が12歳の時、鄭の国に晋の公子・重耳(ちょうじ)が訪れます。重耳は、晋の国内事情によって各国を放浪しなければならなかったのですが、鄭の文公はこの亡命公子を冷遇してしまいます。
春秋・戦国時代という戦乱の世では、亡命公子は全く珍しくなく、いちいち厚遇しているわけにもいかなかったのでしょうし、重耳もほとんどの国でつらい思いをしてきたので、鄭ばかりが悪いわけではないのですが、重耳を冷遇したことが、文公、そして蘭(後の穆公)の運命を変えます。
晋に戻って君主の座に就いた重耳が、後に晋の文公と呼ばれ、この時代を代表する君主の一人で、晋を超大国に成長させていく名君(宮城谷昌光氏の小説「重耳」が詳しい)ですが、冷遇してしまった鄭の文公はこの晋の文公と対立することになり、文公43年(前630年)、晋軍に鄭(当時の国は都市国家)を包囲される事態になりました。
鄭の文公は、自身の公子をことごとく追放、その中に蘭もいました。蘭は、晋に亡命します。蘭は晋の文公に寵愛され、晋の文公が後ろ盾になって、蘭を鄭に戻し、晩年の鄭の文公も折れて、蘭を太子にしました。文公45年(前628年)、文公が薨去し、太子の蘭が鄭の君主になります。後に鄭の穆公(ぼくこう、紀元前649年-紀元前606年 在位:紀元前627年-紀元前606年)と呼ばれます。
鄭は周王朝において交通の要衝として初期は栄え、天下に号令することもありましたが、文公・穆公の時代になると、北の超大国・晋と、南の超大国・楚にはさまれ、両大国間に翻弄される(自ら後背を繰り返す)国になりました。
穆公も誕生秘話や、晋の文公の後ろ盾による鄭への復帰と立太子は華やかでしたが、それ以外、特に君主となって以降目立った事績はありません。穆公の孫に、春秋時代最高の宰相、最大の政治家である子産(しさん 紀元前?年-紀元前522年)が出ますが、このことが穆公の歴史における最後の輝きになりました。
子産についても、宮城谷昌光氏の小説「子産」に詳しく描かれています。
なぜその穆公の誕生秘話が今に語り継がれる中国の夢の代表的なエピソードになったのか、大変不思議です。当時の英雄・晋の文公に寵愛された縁起だったのかもしれません。晋の文公の事績は、伝承や伝説を除いて正史に描かれているだけでも微に入り細にわたります。とても紀元前に生きた人の記録とは思えないほど豊富です。それだけ当時においては大きな存在だったと考えられます。蘭に対する寵愛にもそれなりの理由が求められたのかもしれません。
現代中国でも、女性が蘭の花の夢を見ると、それは懐妊の兆候、特に男子誕生を予兆させるものと考えられています。そうしてみると、実際の鄭の穆公・蘭は、少なくとも君主になって以降は歴史の主役とはなりえませんでしたが、死後、その後長きに渡って、今でも確実に中国文化の中で生き続けていると言えそうです。
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